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言葉に向き合い続ける『広辞苑』編集者が歩んできた「平成」とは?ーー岩波書店・平木靖成

ものづくり , メディア , 多様性 , 新元号

文:紺谷 宏之  写真:柳詰 有香

「国語+百科」辞典の最高峰、「国民的辞典」の編集者が捉えてきた平成の一端を切り取る

新元号『令和』が発表され、平成という時代の終わりを目前にひかえた今、私たちは何を思い、考えるべきかーー。デジタルテクノロジーの劇的な進展、経済の低迷や大規模災害など、変転著しい31年が私たちにもたらしたものを振り返るとき、そこにはさまざまな思考のタネや次代へのアイデアが見つかるに違いない。"平成的思考"から脱却し、新時代を生き抜くための来たるべき未来を予測していく。

長い不変の伝統をもつ一方、日々新しく変わっていく日本語。おのずと言葉には社会や生活の移り変わりが映し出される。日本語の確かな拠りどころと評される『広辞苑』編集者・平木靖成さんに、平成の変容を伺った。

『広辞苑』に学ぶ、日本語の見つめ直し方

― 平木さんは"言葉の百科事典"と言われる『広辞苑』の編集者です。はじめに『広辞苑』の特長からお聞かせください。

『広辞苑』は国語辞典と百科事典、この2つの役割をあわせ持った辞典です。国語のほうは現代語や古語の語釈を載せて、主に新しく定着した言葉・意味・用法などをフォローし、百科のほうは歴史や医学、音楽、スポーツ、サブカルチャーなど600以上の分野に分類し、研究の進展や最新の動向を反映しています。

― 20年以上にわたって『広辞苑』の編集に携わる中で、平成の「言葉の変化」をどのように捉えてきましたか?

とても難しい質問ですね。言葉は絶えず変化していくものです。辞典編集者の仕事は、言葉がどう変化しているのかを見守り、その変化の過程や結果を後追いしながら記述することです。新しい言葉自体を提案することはできません。

インターネットの普及により、昔に比べると言葉の伝わる速度が速くなっているのは確かでしょう。しかし、言葉が生まれる速さや変化する速さは、じつはそれほど変わっていないように思います。言葉の定着度を判断するには10年くらいは必要なのではないでしょうか。

平木 靖成さん

― 言葉には流行り廃りがあります。辞書を編集する上で、その点とどのように向き合っているのでしょうか。

『広辞苑』に新たに加える項目は、日本語として定着したと考える言葉、現代の文章を読むために将来必要不可欠と考えられる言葉。そして、社会の状況を顕著に映し出す事項や人々などです。世の中で流行った言葉だからといって、ある程度長く使われなければ載せることはありません。

編集部員は絶えず言葉集めをしていますが、単に流行語を追いかけることはしません。言葉には、地味でも着実に私たちの生活の中に入り込んでくるものもあれば、ひと頃急速に広まっても数年で忘れ去られてしまうものもあります。本来と違う意味で使われる言葉でも、その意味が日常の会話や文章で広く日本人に定着して使われているならば、語義を追加して掲載します。

基本的に言葉には正しい/間違いはないと思っています。その言葉を使う人が多くなれば、それが、いわば「正しい」言葉としてだんだんと浸透していく。例えば、10年ぶりに改訂した最新の第七版(2018年1月)では「やばい」という言葉の語釈を見直し、もともとの意味である「危険」「危ない」に「のめり込みそうである」という意味を新たに加え、変化を分かるようにしました。

― 改訂の際は、どのような内容の変化があるのでしょうか?

第七版では、約1万項目を追加し、全面的に記述を見直しました。語釈や解説は、改訂のたびに校閲していただいて、適切な表現になるように磨き続けています。

『広辞苑』は古語から収録している辞典ですので、その言葉が使われなくなったという理由で項目を削ることはありません。「ポケベル」や「フロッピーディスク」のように、その言葉を知らないと同時代の文献が読めなくなってしまうような、"ある時代"に定着していた言葉は残します。

第七版では日本語の基礎も見つめ直しました。「歴史的な意味変化に沿って語釈を与える」という『広辞苑』の編集方針の基本に立ち返り、古典から引用した用例を総点検。古語項目も新たに補いました。また、基礎的な類義語の語釈も、意味の違いが分かりやすいように書き換えていきます。

平木 靖成さん

「新しい言葉」で振り返る、平成31年史

― ここまで、『広辞苑』の編集ポリシーについて聞いてきました。ここからは、平成に入って改訂された全4回で新収録した項目をとおし、平成の一端を切り取っていただきたいと思います。

まず、1990年代は第四版(1991年11月)と第五版(1998年11月)の2回、改訂を行いました。

例えば、第四版では「ライフライン」という言葉を収録。当時は、この言葉が広くニュースなどで使われた阪神・淡路大震災(1995年)の前でした。私自身、第五版から編集に携わったので収録された経緯は分かりませんが、すでにライフラインという言葉がその分野の専門家の間では定着し、今後世の中で使われ続けると判断したのでしょう。

第四版では「過労死」も収録しています。その後の言葉の広がり、「karoshi」というローマ字が海外の辞典に掲載された事実を知ると、収録しておくべき言葉だったと思います。新収録した言葉には、おのずから社会や生活の移り変わりが映し出されることもあるのでしょう。

― 第五版はいかがでしょうか?

第五版では環境・福祉分野に世の中の関心が高まったことを受け、これらの分野を新設し、「地球温暖化」や「在宅ケア」といった言葉を収録。重点的に改訂を行った分野の一つになりました。

7年ぶりに改訂した第五版では、それまでも発行していたCD-ROM版に加えて、2001年には携帯電話での利用もできるようになりました。前後して電子辞書の業界が急成長し、電子版の『広辞苑』の活用の幅が広がる時代でしたね。

― 第六版の刊行は2008年1月です。21世紀に入り、初めての全面的な改訂版となりました。

第六版では「正社員」「契約社員」という言葉を収録しました。第五版を作っていた1995年、日経連が「新時代の『日本的経営』」を発表し、雇用形態の多様化を提言します。この発表以降、雇用が流動化し、契約社員や派遣社員など、いわゆる非正規労働が増えはじめ、10年以上経った第六版の頃に社会問題化します。

科学・技術の分野では「SNS」を収録。IT関連用語として「デジタル放送」や「検索エンジン」「ブログ」「ネットサーフィン」なども載りました。日本でのSNS利用者数が一気に伸び始める、少し前の時期でした。

平木 靖成さん

― 10年ぶりの大改訂を経て、2018年1月には第七版を刊行。2010年代の移り変わりを映し出すような、特に力を入れた分野はなんでしょうか?

東日本大震災を受け、「原発」分野を新設しました。もともと原発関連の項目は「物理」分野に含めていましたが、原発の専門家にお願いして、最新の動向にも気を配りつつ、より正確なものに仕上げました。

2010年代は火山噴火や豪雨といった天災も頻発。自然災害への関心の高まりも視野に入れて、地球科学・気象・海洋関連語も充実させました。『広辞苑』の携帯電話版で医学・薬剤関係の言葉が検索される機会が増えていることを受け、薬局や病院でよく耳にする用語も増やしましたね。

ポスト平成は「たしかな言葉」が求められる時代

― いまや、インターネットでなんでも検索できる時代です。平木さんが考える「ポスト平成」の展望とはどのようなものでしょうか?

言葉はいつの時代もいつの間にか変化し、人々に無意識のうちに選びとられ、なんとなく広く使われることによって、定着していくものです。

『広辞苑』が心がけているのは、60字程度で簡潔かつ的確な語釈・解説を示すこと。何千字、何万字という膨大な情報がすぐに手に入れられるが、要点がつかみづらいインターネット上の情報とのいちばんの違いです。
「広辞苑によれば......」と、さまざまな場面で語釈を引用してもらえるのは、どんなに情報が増えても、ある言葉なりある概念なりをひと言で知りたい/説明したいというニーズがあるからだと思います。時代が変わっても、このニーズはなくならないはずです。

加えてお話するなら、例えば第六版と第七版の二冊を並べ、語釈の変化を見比べてみると、面白いかもしれません。そういう楽しみ方をしてくれる人が増えたら幸いです。

平木 靖成さん

― 最後の質問です。平木さんにとって平成とは?

第七版では〈日本の現在の元号。昭和64年(1989)1月8日改元〉となっています。次の版が刊行された時、「平成」の項目の記述は増えていると思います(笑)。

プロフィール/敬称略

※プロフィールは取材当時のものです

平木靖成(ひらき・やすなり)

岩波書店
辞典編集部 副部長

1969年生まれ、東京都出身。東京大学卒業後、1992年に岩波書店入社。翌93年より辞典部(現、辞典編集部)に配属。以来、『広辞苑』をはじめとした辞典の編集に携わる。『広辞苑』の改訂には98年刊行の第五版より参加。

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