6割の自信でもやってみる。80歳のエンジニアが若者中心のスタートアップで働く理由

6割の自信でもやってみる。80歳のエンジニアが若者中心のスタートアップで働く理由
文:森田 大理 写真:須古 恵

70代で創業直後のスタートアップ企業に一般応募で参加。80歳の今も現役でモノづくりに携わる深谷弘一さんの生き方から、シニア人材が社会で活躍を続けるためのヒントを探る。

かねてから叫ばれている少子高齢化の流れに加えて、人生100年時代と言われる長寿命社会に突入。人口構造の変化に伴って国が推し進めているのは、すべての世代の人々が社会に積極参加するエイジレス社会の実現だ(内閣府:高齢社会対策大綱(2018年))。しかし、意欲的に働くシニアを増やすことも、企業が人材を受け入れることも、まだまだ道半ばなのが現実だろう。

そんな今、とあるスタートアップ企業で活躍するシニア人材がいる。株式会社Photosynth(フォトシンス)で働く、80歳の現役エンジニア 深谷弘一さんだ。なぜ深谷さんは定年退職後も精力的に働き続けられるのだろうか。また、20~30代中心のスタートアップが敢えて高齢のエンジニアを採用したのはなぜなのだろうか。深谷さんご本人と、技術部門の責任者であり創業メンバーである同社取締役の熊谷悠哉さんに話を聞いた。

定年は人生の節目だけれど、人生の終わりではない

深谷さんは1941年生まれ。大学を卒業後は日本電気株式会社(NEC)に就職し、技術畑で定年まで勤め上げた生粋のエンジニアだ。とはいえ、長年同じことを続けていたわけではなく、何事も好奇心に従って新しい仕事にチャレンジするタイプ。キャリアとして一番長いアナログICの回路設計も、自ら手を挙げて飛び込んだ結果だ。

60代で定年を迎えた後は2年ほど関連企業に勤務。ここまでは、同世代の会社員が歩む道としてさほど珍しいものではないだろう。しかし、深谷さんはその後マレーシアで若手技術者の育成に10年携わる。定年退職後も精力的に働き続けていたのはなぜなのだろうか。

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80歳のエンジニア 深谷弘一さん

「当初は2年の予定でマレーシアに行って、結果的に10年。ここまで長くやるつもりはなかったんですけどね。ただ、私としては定年後も自分の好きな技術の仕事に携わり続けたかった。そもそも“定年”という概念をあまり考えたことがありません。一つの区切りではあるし、会社の仕組みとして退職はするのだけど、仕事は何かしらの形で続けたかった。同期を見渡すと、仕事を辞めてこれまでと全く違う人生を歩んでいる人もいますが、私は自分がどうしたいかに素直に従った結果が、技術の仕事を続けることだったんです」

マレーシアの仕事がひと段落した後は、2年ほど仕事から離れていた時期もある。ただ、深谷さんはそんな日々が物足りなかったそうだ。難しいことや新しいことを成し遂げたときの達成感を味わいたい、自分の経験をどこかで活かしたいと、再び働く決意をする。

「人生を振り返ってみると、私は仕事で様々な挑戦をさせてもらうことで自分の世界を広げてきました。20代でアメリカのシカゴに出張し、1960年代当時の日本とアメリカのあまりの違いにカルチャーショックを受けたこと。天安門事件が起きた頃の激動の中国で合弁会社立ち上げプロジェクトに参加したこと。そういう経験を、もう一度したかったんです」

そこからの行動が深谷さんらしいところ。NEC時代のツテを頼らず、インターネットで情報を調べ自力で仕事を探しはじめた。技術顧問の派遣サイトなどを見て片っ端から応募したこともあるが、ピンポイントの専門領域を求められることが多く、なかなかマッチしない。そんなときにたまたま目に留まった募集企業こそ、フォトシンス。このときまで深谷さんは存在を全く知らない企業だった。

若者には溢れるアイデアがある。私には40年以上の経験がある

フォトシンスは、IoT・クラウドサービスを提供するスタートアップだ。2021年には東証マザーズへの上場も果たす規模にまで拡大しているが、当時の深谷さんが知らなかったのは無理もない。両者が出会った2014年は、同社の創業直後。創業メンバー6名が五反田のマンションの一室を事務所にしていた時期だった。まだ事業がどうなるかも分からない状態。ためらう気持ちはなかったのだろうか。

「たしかに、私も上手くいかなかったスタートアップ企業を知っていますし、失敗が当たり前の世界に、不安がなかったと言えば嘘になります。でも、スタートアップはまだ何者でもないからこそ、自分たちの力で何にでもなれる。そこに夢があるなと思ったんです。また、自分が70過ぎだったからこそチャレンジできた気がします。もし、家族を養うことに全力を注ぐ年代だったら、リスクを感じて踏み込めなかったかもしれません。」

元来の好奇心とチャレンジ精神の強さで、まだ産声を上げたばかりの企業に興味を持った深谷さん。とはいえ、フォトシンスの創業メンバーは当時20代。70歳を越えていた深谷さんが、親子以上に年が離れている集団に飛び込めたのはなぜなのだろう。

「求人情報に書いてあった一文に心が惹かれたんです。『自分たちは若いのでまだ経験が浅い。あなたの経験を活かして技術的なサポートをしてほしい』といった内容で、私のような経験を求めてくれている事が嬉しかった。だから私は、決められたことだけをやるつもりでフォトシンスに入ったのではありません。自分が役に立てる事なら何でもやるつもりで、仲間に入れてもらった感覚なんです」

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孫ほど年齢の離れた新卒入社のエンジニアとも肩を並べ、開発の仕事に携わっている

当初は技術顧問としてのアドバイスからはじまり、現在は実際の開発にも携わっている深谷さん。創業期に深谷さんの知見が特に発揮されたのは、量産体制に移行するフェーズだ。創業メンバーは、前職時代から事業開発を手掛けてきた経験があり、頭の中からあふれ出るアイデアを形にする、いわゆる「0→1」の経験は豊富だった。しかし、いくら画期的なアイデアを製品に落とし込んでも、安定的に量産できる体制が整わなければマーケットには広がらない。「1→10」「10→100」のフェーズで、ベテランの確かな経験に裏打ちされたノウハウが求められたのだ。

「私はNEC時代に多いときで年間30品種の量産立ち上げを手掛けており、フォトシンスの若手のみんなよりも、開発~製造のサイクルを何度も繰り返しています。だからこそ分かるのは、実践でしか得られない知識や経験があること。私には、40年超のキャリアがあるからこそのノウハウがあります。一方で、フォトシンスの創業メンバーはビジネスアイデアに長けていることはもちろん、若くして起業しているからこその情熱や覚悟がある。お互いの良さを活かしあって良い仕事をしていく仲間になれた気がしました」

豊富な経験を持ちながらも、時代にあわせて柔軟に変化できるか

このように、深谷さんが80歳の今も意欲的に働き続けているのは、持ち前のチャレンジ精神や、技術をこよなく愛する気持ちが突き動かしている部分もあるのだろう。その一方で、フォトシンスのようにシニアの力を求めていた企業があったからこそ、深谷さんは生きがいを感じられる新たな環境に辿り着けたとも言える。

深谷さんはシニア人材向けの求人サイトでフォトシンスと出会っており、同社がシニアに可能性を見出していたのは明確だが、同社はなぜシニア人材に注目したのだろうか。その疑問を取締役の熊谷さんにぶつけると、IoTスタートアップの特性上、年齢やバックグラウンドに関係なく、多様な人材が必要だからだと答えてくれた。

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取締役(開発管掌) 熊谷悠哉さん

「私たちはIoTサービスを展開する以上、幅広い技術領域が必要です。機械や電気などアナログな知識も必要だし、組込制御の知識も必要。Webアプリケーションの開発もおこなえば、iOS、Androidアプリも開発します。これだけ多岐に渡る領域をすべてカバーするのはなかなか難しい。自分たちだけで解決するのではなく、いろんな人とつながって製品をつくるカルチャーを大切にしてきました。その意味で深谷さんは創業期のフォトシンスにモノづくりの哲学を注入してくれた存在。我流で突っ走っていた部分もあった私たちに、技術の基本に立ち返ったアドバイスをしてくれたのがありがたかったですね」

深谷さんのフォトシンスでの活躍は、日本の高度経済成長を支えたモノづくり技術者たちの経験が、時を経て先端産業ともいうべきIoTで活かせた好事例と言えるだろう。ただ、深谷さんが若者だらけの会社に溶け込んでいるのは、技術的なバックグラウンドのおかげというより好奇心旺盛なところも大きいようだと熊谷さんは語る。

「私の親でも最新の機器を使いこなすことに苦労しているくらいなのに、深谷さんは新しくツールやシステムを導入しても、手取り足取り教える必要がないんです。スマートフォンは若者と変わらず使いこなしていますし、Slackはアカウントを渡せば何の説明もなく自力で操作してチャットで挨拶してくれました。開発業務でも、回路設計のシミュレーションソフトなんて深谷さんが働き始めたときにはなかったはずなのに、すんなり使いこなしちゃうんですよ。

過去の経験だけに頼るのではなく、柔軟に学び変化しようする姿勢が深谷さんの尊敬するところ。それに、いくら大手企業での豊富な経験があっても、私たちとは規模も資本も違いますからまったく同じやり方ができる訳ではありません。深谷さんはご自身の経験をベースにしながらも一方的に押し付けるのではなく、『今の環境でどうするか』を一緒に考えてくれる柔軟性を持っている人だと思います」

若手エンジニアたちの中に溶け込み、一緒に働く姿が印象的な深谷さん。長く働くためには心身の健康が必要不可欠だと語る一方で、若い人の近くにいることで元気をもらっている側面もあるそうだ。そんな深谷さんのように、私たちがいくつになっても社会で活躍し続けるにはどうしたらよいのだろうか。最後にもう一度深谷さんに秘訣を聞いてみた。

「若手技術者と対等の関係でいるようにしています。マレーシア時代も先生と生徒というより、同じ技術者の仲間という感覚を大切にしていました。今の環境も年齢はものすごく離れていますが、目上・目下のような関係性や相手の役職もあまり気にしていません。新卒1年目の若手でも、敬意を持って“〇〇さん”と呼ぶ。お互いが尊敬しあえる仲間でいようとすることですね。あとは、自分の仕事につながるチャンスを見逃さないこと。6割程度でもできそうと思ったら果敢にチャレンジし、その仕事を好きになってベストを尽くすことが大切なのではないでしょうか」

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プロフィール/敬称略

※プロフィールは取材当時のものです

深谷 弘一(ふかや・ひろかず)

1941年生まれ。大学卒業後、大手通信機メーカー(NEC)へ就職し、CRTディスプレイ開発、アナログICの設計などに携わる。海外駐在、海外出張も多数こなし、中国の合弁会社立ち上げにも尽力。定年退職後は、マレーシアのセランゴール州政府の技術者育成プロジェクトに約10年間参画。2014年秋フォトシンスに入社。現在は回路技術コンサルタント(アドバイザー)業務とエンジニア技術実務(回路設計、回路基板評価、回路や部品の信頼性評価等)を担っている。

熊谷 悠哉(くまがい・ゆうや)

早稲田大学を卒業後、パナソニック株式会社に入社。スマートフォンや法人向けIoT事業の開発やマーケティングに従事。2014年、創業メンバーとしてフォトシンスを創業。ハードウェア製品のプロダクトマネージャーとして商品企画から設計、製造、調達等、ものづくりに関する幅広い領域をリード。直近では、開発管掌の取締役として「Akerun入退室管理システム」を中心とした製品開発に加え、IoT × SaaSを担う開発業務全般を統括。

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