始めた瞬間から変わり始める。自分を変えたかった学生がノンフィクション作家になるまで

始めた瞬間から変わり始める。自分を変えたかった学生がノンフィクション作家になるまで
文:葛原 信太郎 写真:鍵岡龍門

理解の余白が、可能性になる––アメリカのコンサル会社、日本のシンクタンク、フランスの国連機関で働いた経験を持つノンフィクション作家・川内有緒さんと考える、自分を変えていくことと、相手を受け止めることの関係性

パンデミックによって社会が変化した今、海外はずいぶんと遠くなった。自分の殻を破るための王道である「海外経験」もまた、手が届きにくくなってしまった。日本にいながらにして、自分を変え成長していくにはどんなマインドセットが必要か。

川内有緒(かわうち・ありお)さんは、20代のキャリアをアメリカのコンサルティング会社と日本のシンクタンクで、30代のキャリアをフランスの国連機関で築いた。そして、帰国後に選んだのが、フリーランスのノンフィクション作家だ。随分とユニークな経験を持つ川内さんは「自分を変えるために大事なことは必ずしも場所だけではない」という。彼女の海外経験を振り返りつつ、ノンフィクション作家の視点から自分を変えていく方法を聞いた。

働き詰めの日米から、フランスへ渡って気づいた「人生は表現すること」

── 川内さんのこれまでのキャリアを教えていただけますか。

20代と30代で、対象的な働き方をしてきました。20代はとにかくがむしゃらに働いた時期。アメリカの大学院を出て、そのまま現地のコンサルティング会社に就職しました。帰国してからは、日本のシンクタンクに就職。仕事やプライベートで訪れた国は30カ国ほどでしょうか。

さまざまな人と出会い、インタビューや調査・分析などを重ね、今にも活きる仕事の土台を築きました。自分にとって大切な時間でしたが、とにかく大変で。プライベートを楽しむ余裕はまったくなく、精神的にも追い詰められ「このままでは人生がめちゃくちゃになってしまう」と危機感を持っていた記憶があります。

本格的に体を壊してしまったのをきっかけに、働き方を変えようと決意。そのとき、たまたま見つけた国連機関の求人に軽い気持ちで応募したら、なんと選考が通ってしまったんです(笑)。

── それでフランスへ?

そうですね。31歳でした。フランスは、フランス革命以降、労働者の権利が非常に強い。サービス残業なんてしないし、会社に不満があれば地下鉄であろうともストライキを決行し、運行は完全にストップします。国連機関も例にもれず、私の部署では夜6時を過ぎれば、誰も働いていませんでした。

日本では「苦しんでもやり抜け!」「努力を重ねて得たいものを得よ!」というプレッシャーがあり、楽しんだり緩んだりすることに罪悪感すらありますよね。これは日本だけでなく、アメリカでも同じでした。

しかし、フランスは違います。仕事はさっさと切り上げて、それぞれが仕事以外のことを存分に楽しむんです。観劇や習い事、俳優活動をしている人もいました。フランスで働いたことで、自分の価値観は大きく変わりました。

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2004年から5年半働いたフランス・パリの国連機関の事務所。個性的な同僚たちとの出会いは、川内さんの仕事への考え方を大きく変えた。(提供:川内有緒)

── どのように変わりましたか?

「こんなふうに時間を使っていいんだ、楽しんでいいんだ」と驚いたと同時に、生きるとは何なのか考えさせられました。20代は生きることと仕事が直結していた。しかし、フランスで生きる人々と出会い、話を重ねることで思い至ったのは「人生とは表現すること」なのではないかということです。仕事だって表現のひとつ。でも、答えはそれだけじゃない。

自分の表現とはいったいなんだろうか、という問いに向き合った結果、いまはノンフィクション作家として文章を書いているというわけです。

海外で働く“だけ”じゃ何も変わらない

── そもそもなぜ、アメリカに行ったのでしょうか。

大学時代、自分を変えなければ…という強い焦りがあり、突発的に行ってしまったんです。

子どもの頃から映画監督になりたくて、本の大学は芸術学部を選びました。そこでいざ映画を撮ろうと思った時、伝えたいことが何もなかった。自分の空っぽさに愕然としたんです。いくら映画を撮る技術を学んでもこのままでは意味がないと思いました。さらに大学の頃の私は、誰かと協働することがとても苦手だった。今思い返すと、あまりにも子供で自分勝手でした。

自分で何かを生み出すこともできないし、誰かと生み出すこともできない。このまま大人になったら、どんな人になってしまうのだろう…と焦燥感が募り、常に苛立っていました。

自分を変えるためには、自分がよく知っている東京という街や、家族や友人の輪から飛び出す必要があると思ったんです。自分がまったく知らない場所に行かなければ、と。

── アメリカをはじめさまざまな国を訪れ、実際にご自身は変わりましたか?

変わりましたね。どこが変わったか分からないくらい、まるっきり変わりました(笑)。例えば、どんな形でも私は生きていける、という自信を得たこと。アメリカには本当に突発的に行ったので、現地に頼れる人はほとんどいませんでした。自分ひとりでどうにかしなければならない状況を乗り越え、それでも楽しく過ごせたことは、自信につながっています。

イベントなどで私の経歴を話すと「どこからそんな勇気が湧くんですか」と聞かれることがあります。たしかに、「転職するたびに大陸を変える女」なんて呼ばれるくらい常に新天地へ行くことを繰り返していますから、不思議に思われるのかもしれません。でも、私は怖いなんて少しも思っていないんです。むしろ、いつだって未来にとてもワクワクしている。そう思えるようになったのは、海外での経験があり、いかようにも生きていけるという自負があるからです。

── さまざまな海外経験が川内さんを変えていったわけですね。真似してみたい!と思っても、この数年は、海外に行きづらい状況が続いています。日本にいても自分を変えていくことは可能でしょうか。

確かに海外に行くような圧倒的な経験はしづらいですよね。でも、自分を変えていくのにどこにいるかはあまり関係ないと思うんです。それよりも大事なことは、今ここで実行すること。

よく「どうしたら文章を書けるようになりますか」と相談をもらうのですが、そういうことを言うのってそもそも書いてない人が多いんです。やりたいことのアイデアはあるけど、抱えているだけ。実行しないのはもったいない!やりたいことを今すぐスタートすれば、その瞬間から人は変わっていると思うんです。そうやって、小さな実行を積み重ねていくことで、気づいたら大きく変わっているんじゃないでしょうか。

── 日本、アメリカ、フランスで働き、帰国後はフリーランスのノンフィクション作家。川内さんは常に変わり続けていますね。

12年前に日本に戻ってからは、アメリカ時代とも、フランス時代とも違う道を選びました。フリーランスになってからもかなりがむしゃらにやってきましたが、心や体が壊れるような働き方ではありません。自分の心地よい人と空間で仕事をしているので、ストレスは少ないです。

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5年半のパリ滞在を帰国後にまとめたエッセイ『パリの国連で夢を食う。』 (幻冬舎文庫)。パリに生きる人々と出会い、川内さんの価値観が揺さぶられ変わっていく様子が描かれている。

「分かる」へのプレッシャーに抗う

── 海外で働いた経験は、今の仕事に活きていますか?

あらゆる面で活きていますね。ひとつ例をあげると、インタビューでしょうか。取材対象の方に「自分のことを心地よく話せた」と言ってもらえることが多いんです。実際、これまで他人に話さなかったこと、話そうとすら思わなかったことなどを吐露していただけることがあります。私との会話を通じて「自分がどういう人なのか見えてきた」なんて言ってくれた人もいました。

おそらく、私が相手への決めつけや期待を持たずに話を聞くからだと思うんです。取材となると「この人はこういう話をしてくれるだろう」と、どうしても狙いを持って話を聞きがちなのですが、それは相手に伝わり、狙いに沿った話をしてしまうものだと思います。そうではなく、できるだけ「その人を、そのまま受け止める」ことを大切にしているんです。

そう考えるようになったのは、世界中さまざまな場所で、多様な人と出会ってきて、一人ひとりがまったく違う考えや価値観を持っていることを実感したからです。

── 自分から見えている相手はあくまでも一面ですし、その一面ですら、自分の思い込みかもしれないですよね。

そうですね。そうやって相手をなるべくそのまま受け止めようとすることは、自分を変えていく手段にもなります。私がノンフィクション作家として文章を書くときは、自分が強く興味が持てる相手を選び、コミュニケーションを深めていきます。もはや相手に恋しているようなもので(笑)、自分の中に相手の考えを取り込みたいと思うんです。相手の考えや価値観を、1滴でもいいから自分の中に入れたい。

自分の考えは、言ってみれば「自分に偏った考え」なんですよね。相手の考え方を取り入れることで、偏りが少しずつ矯正されて、より自由でしなやかになっていく感覚があります。

歳を取ると自分の考えに凝り固まっていくと言いますが、私はどんどんしなやかに生きていきたいんです。歳を重ねれば重ねるほど、自分という偏りから離れて、自由になっていきたい。相手とコミュニケーションを重ねて文章を書くことが、自分を無限に変えていくんです。

── コミュニケーションを重ねれば、相手を理解していけるのでしょうか。

どうでしょう……そうとも言い切れないかもしれません。相手を理解するのはとても難しいこと。むしろ相手がよく分からない存在だからおもしろいんじゃないでしょうか。

例えば、私の近著『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』で書いた全盲の美術鑑賞者の白鳥建二さんとは、もう3年ほどの付き合いになります。1冊の本が書けるほど長い時間をかけてコミュニケーションをとっていますが、未だにミステリアスな部分だらけ。もっと白鳥さんを知りたいし、付き合い続けたいと思っています。でも、きっと全部は分からないと思う(笑)。

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『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル)では、白鳥さんの思考やアート作品の捉え方を通じて、私たちが無意識に「分かった気になっていること」「理解した気になっていること」を解きほぐしていく。

── 相手が分からない、理解できないことは悪いことばかりではない、と。

そうです。今は「共感」や「相手を理解する」能力がビジネスシーンで重要視されていますが、そのプレッシャーが強すぎると思います。分からないものを分かろうとするという力があまりにも強くて「分かっていないといけない」「分かっていないのに、分かったふりをする」ということが起きているんじゃないかと。

私は、分かることや「分かりやすさ」へのプレッシャーには抗っていきたいんです。全部分からなくてもいい。だって、人間も社会も複雑なんですから。

── しかし、作家としてはストーリーの最後には、テーマについて分かりやすい結論を出さないといけないのではないですか?

そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。確かに、文章を書く上で、導入から結論までのストーリーを組み立てるのは宿命です。しかし、現実以上に強い物語を書いてしまうと、現実と解離してしまう。無理矢理出した結論は、的外れかもしれません。

私の文章は、最後にかならず余地を残すようにしています。読んだ人が、その人なりに解釈できる余地を残す。答えは提示されるものではなく、読んだ人が見つけるものだと思うからです。答えを出したら、そこで終わっちゃうじゃないですか。余白があれば、次への道がつながるし、その道の先には自分を変えていくチャンスがあるかもしれない。だから、理解の途中にあることを、もっと許していいと思うんです。

プロフィール/敬称略

※プロフィールは取材当時のものです

川内有緒(かわうち・ありお)

ノンフィクション作家。1972年東京都生まれ。 映画監督を目指して日本大学芸術学部へ進学したものの、あっさりとその道を断念。行き当たりばったりに渡米したあと、中南米のカルチャーに魅せられ、米国ジョージタウン大学で中南米地域研究学修士号を取得。米国企業、日本のシンクタンク、仏のユネスコ本部などに勤務し、国際協力分野で12年間働く。2010年以降は東京を拠点に評伝、旅行記、エッセイなどの執筆を行う。『バウルを探して 地球の片隅に伝わる秘密の歌』(幻冬舎)で、新田次郎文学賞を、『空をゆく巨人』(集英社)で開高健ノンフィクション賞を受賞。著書に『パリでメシを食う。』『パリの国連で夢を食う。』(共に幻冬舎文庫)、『晴れたら空に骨まいて』(講談社文庫)、『バウルを探して〈完全版〉』(三輪舎)など。

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