偶然のチャンスに飛び込む勇気も大切。留学で知った日本で里山・里海の保全活動をする アン・マクドナルド

偶然のチャンスに飛び込む勇気も大切。留学で知った日本で里山・里海の保全活動をする アン・マクドナルド

文:岡田カーヤ 写真:佐野竜也

人の営みと自然とが長い年月をかけて築き上げた、日本ならではの風景「里山」「里海」。カナダ出身のアン・マクドナルドさんは、そこから生み出される多様な文化に惚れ込み、日本に何十年も通い続けているうちに、研究者となって本をつくるだけでなく、専門家として日本政府や国連による政策策定にも携わるようになる。

初来日した高校生のとき、「自分はマイノリティ」だと感じた彼女が、日本の農村漁村で、どのように課題を見つけ、当事者として取り組んで行ったのか。そこにある思いとは?

― まずは日本へ留学したきっかけを教えてください。

子どもの頃父親の仕事の関係でスウェーデンに住んでいて、中学1年生になる前にカナダへ帰ってきました。そのとき父が私たち兄弟に言ったのは、社会人になる前に1年間はどこか別の国へ行って暮らしなさいということ。

それまでスウェーデンに2年間暮らし、北欧と北ヨーロッパを回ったのは家族と一緒の旅だったので、今度は自立して、個人として異文化体験をしてきなさいと。その言葉を受け姉はオランダへ。私は姉とは違うところ、反対方向のアジアに行ってみようと思い、高校の留学プログラムに申請してチベット、モンゴル、ネパールへの留学を希望しました。

幼い頃から『ナショナル・ジオグラフィック』が大好きで、銀のアクセサリーや、少数民族の服装に憧れていた、世間知らずの15歳だったんです。しかし、そうした場所への留学プログラムは前例がなく、いったんはヨーロッパへ行くことが決まりました。ところが、出発まで2週間となったある日、突然電話がかかってきて「日本はどうですか? カナダ人の第一号として留学してみませんか?」と聞かれ、急きょ日本へ行くことを決めました。

― 当初は行く予定になかった日本への留学。そこで得たものは?

行った当初は本当に白紙状態で、そもそも日本語がひらがな、カタカナ、漢字で構成されている事すら知らなかったんです。けれども一年後、カナダに帰ってきたとき、自分が大きく変化していたことを実感しました。これまでとものの見方がガラリと変わってしまうほどに。例えば、カナダはさまざまな民族が暮らす「多元文化主義国家」と言われていますが、果たして本当にそうなのか。みんな平等で、肌の色や宗教は関係ないと言っているけれど、一人ひとりの中には白人主義的な差別意識があるのではないかと。

私は日本に来たとき生まれて初めて「マイノリティ」になりました。もちろん、みなさん私を大事にしてくれたのですが、「あなたはガイジンだから」と言われるたびに、この場所では自分が少数民族であることを思い知りました。すると、カナダにいるアジア人やアフリカ系の人たちも、こういう経験をしてきたのだろうと気づくんです。さらには自分の内側にも白人主義的な偏見があることにも気がついてしまった。だから、それを改めないといけないと思ったんです。

アン・マクドナルド

― 最初、日本での自分を「マイノリティ」だと感じたアンさんが、やがて「当事者意識」をもって、里山・里海を保全する活動を行います。そのターニングポイントはいつでしたか?

カナダに戻って大学に入り、その後再び日本に来て熊本大学に留学したときに、柳田國男の民俗論に強く影響を受け、農村に興味を持って通い始めことが転機だったと思います。

高校生のときは日本語ができず振り手振りの世界、その後カナダの大学で「アジア学」を専攻して日本語を学び始めたものの、会話はまだまだでした。質問はできても、返ってきた答えは1割程度しか理解できないような状態。そんななか、農家の人たちと一緒に作業をすることで、彼らの言葉や、彼らの目線にもっと近づけるんじゃないかと実践したのが、田植えやいぐさを編む体験でした。一緒にいろいろな体験を共有したことで、農家の人々との距離が縮まり、だんだんと同じ景色を見て同じ言葉をしゃべることができるようになってきた手応えのようなものを感じました。

そして留学も終わりに近づいた頃。民俗学をもっと勉強したいと思っていたときに紹介してもらったのが、清水弘文堂書房という出版社でした。長野県で農村暮らしを実践しながら民俗学を学べる「富夢想野塾」では、編集会議に通ったら自分の興味のあるテーマを取材して一冊の本にできると聞き、それならカナダへ帰る前に、自分の本を作ろうと思って参加してみましたが、まったくもって甘かった(笑)。やればやるほど、本を一冊書くということが、いかにたいへんかを思い知りました。

― 当時、アンさんが追求していた「テーマ」とは?

最初に来日したのが1982年で、83年にカナダにもどり、88年に再び来日するのですが、その5年間で日本社会の変化を目の当たりにしました。日本はちょうどバブルの時代。特に変わったと感じたのが食生活で、83年はスーパーへ行っても和食の食材が中心だったのが、洋食が急増していた。食文化がこれほど変わっているのだから、他のこともいろいろ変わっていているに違いないと予測がつきました。

日本が戦後に成し遂げた経済成長は評価すべきで、日本のように成功した国は、世界をみても他にないと思います。それは本当に素晴らしいこと。でも、成功をして得るものがあれば、失うものも必ずある。日本が経済的な成功で物質的に得たものがある一方、失ったものはなんだろう? 個人としても、コミュニティとしても、国としても、失ったものは必ずあるはずだという直感から、農村へと入っていきました。

当時、海外から日本に来ていた留学生たちは、日本の経済的成功ばかりに注目していました。もちろん、それが「良い」という前提で。でも、果たして本当にそうなのでしょうか? 当時の日本は、アメリカのキラキラしたものばかりを喜んで受け入れて、日本的な文化を無差別に捨て、農業、林業、漁業などの第一次産業は衰退していく一方でした。でも、私はそれが良いか悪いかの議論や分析がされないまま失われていくことに疑問を感じていて。だから、日本が大切なものをどんどん捨てていることが、本当に正しいことなのか、その答えを探りたいという気持ちで、日本の農村社会を支えてきた職人さんから聞き取り調査を始めたのです。

里山

― 農村社会に入って聞き取り調査をするのは、簡単ではなかったように思えます。

まずは役場に行って、明治生まれの職人さんをリストアップしてもらいました。おおらかな時代でしたね、今では絶対にできません。最初は電話をかけて聞き取り調査の協力をお願いしていましたが、実際に会わないと始まらないことに気づいてからは、一人ひとりを訪れノックして、自己紹介をして、勉強したいので話を聞かせてくださいとお願いして回りました。

今でこそ、いろいろな雑誌やテレビで農村暮らし・伝統文化の特集をしていますが、1990年代の日本では誰も彼らのことに注目していませんでした。私が訪問した職人さんも最初は不審がるものの、熱心に聞いてくうちに、いろいろと話をしてくれました。それでうれしくなった私は、原稿を書いて編集部にもっていったのですが、そのときの原稿はすぐにゴミ箱に捨てられてしまいました。そこで言われたのが「頭でっかちではダメ、足で書きなさい」ということ。つまり、一回行って質問しただけで書くのでは文章に深みがない。何回も同じ人のところに行って、同じ質問を繰り返して、その人の深いところまで入っていって、初めておもしろい原稿が書けるということでした。

― 何回も通うことで見えてくることがある?

全然違いました。何度も足を運んで、一緒の体験を共有して、同じ景色を見られるようになって初めて、話してもらえることがたくさんありました。私は、2008年から石川県能登半島の海女さんのところへ通うフィールドワークを行っているのですが、そこでも同じ経験をしました。

最初の年は、作成したアンケートへの回答はほんのちょっとしか書いてくれない、「今日は疲れているから明日来て」といわれる。何ヶ月か通って、ほとんど実りがありませんでした。どうしたらよいのかと考え、冬の間にスキューバダイビングのライセンスをとり、翌年は許可をとって彼女たちと一緒に海に潜りました。メモは一切取らない、カメラも持っていかず、ただ共に海に入るという体験をして話をしただけ。でも、体験を共有できたことで関係性が全く変わりました。どうして彼女たちが私の質問に答えてくれなかったかというと、私が海のことをわかっていなかったから。共通の体験がなかったので、どうせ言ってもわからないだろうと思っていたのです。学ぶということはどういうことか、最高の勉強をさせてもらいました。

アン・マクドナルド

― フィールドをそれまでの「里山」から「里海」へと変えて、海女さんの研究をするようになった理由は?

私は気候変動に興味があって環境省の仕事もするようになっていたので、自分の研究フィールドを環境や社会へ貢献できることに結びつけたいと思っていました。温暖化が進んでいるという科学的なデータがある以上、小規模漁業者や伝統魚漁業従事者のような気候変動による脆弱性の高い人達はその影響もすごく受けやすく、適応力もつけないといけない。私は、科学的なデータだけが気候変動に対応するための答えをだしてくれるとは思っていません。一方で海女さんたちは昔から海のことをよく知っている。彼らの持っている伝統知識と科学知識を融合させていけば、なにかの解決方法が見つかるのではないかと思っているのです。

― 研究者として、1994年頃から農林水産省や環境省の政府委員会で働き始めたほか、1999年からは気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の仕事、2010年名古屋で開催されたCOP10では「サスティナブル・オーシャル・オーシャン・イニシアチブ」というプラットフォームを立ち上げるなど、政府や国連における「政策制定」の仕事に携わるようになりました。こうした活動にはどういう思いがありますか?

私は農業や漁業の「現場」にいることが多かったので、そうした「現場」と「政策」を作っている人たちとのパイプラインになれたらいいと思ったのです。それは、やっぱり90年代に田舎に住んでいた経験が大きい。政策に激しく左右されていた農家、漁師の人を見ていて、こうした現場と政策をつくるサイドの溝を1センチでも埋めることができるのではないかと思ったからなんです。現場にいる人たちは声をあげたくても、どこに届けていいかわからないことが多いのです。

自分の「肩書」は意識していませんでした。今は大学の教授となっていますが、20代は預金通帳をまともに見ることができない生活。ようやく定期収入が入りはじめた30代半ばくらいで自分の役割がなんとなく見え始め、40代になって政府や国連の仕事をするようになったことで、自分が選んだ道はずっと霧がかかっていたけれども間違いではなかった、と思えるようになりました。

― 茨の道でありながら、こうしてキャリアを積み重ねてこられたのはどうしてでしょう?

「社会に貢献したい」という思いがあったからです。私の父はカナダの大学で働く栄養学の研究者だったのですが、繰り返し言っていたことがあります。「なんのために自分は研究するのか、なんのために教育者になるのか」。それをいつも考えていた人で、私にもそれを繰り返し言い聞かせていました。父はすでに亡くなっていますが、私は彼の影響をすごく受けていると思っています。

― 今、日本人でも海外で感じた課題解決に取り組む人が増えています。どういう姿勢で取り組むべきだと考えますか?

国内、国外、どこで活動するかはあまり関係ないと思います。言えることは、チャレンジをしながら、目の前にチャンスがあったら、目をつぶってぽーんと飛び込む勇気をときには持つべき。最初は戸惑うかもしれないし痛い目にも合うかもしれないけれど、若い頃は転んでもいい。50歳になって初めて転ぶと立ち上がりづらいけど、若いうちなら怪我をしてもすぐに治るから。

あとは、専門性をつくるべきですね。私は肩書きを必要とはしませんでしたが、「私は誰?」「何になりたい?」と常に問いかけていました。それで出た答えが農村、漁村の現場の専門家としての「フィールドワーカー」。また「社会のニーズはどこにあるのか?」「まだ研究されていないところはどこ?」「誰も気づいていない問題はなに?」。そうしたことも20代の頃から考えていました。その結果、今は「里海」に注目して、「海女さん」のことを研究しています。隙間産業ですね(笑)。

でも、結局、人間は似ていて、ベースは同じ。私の場合、たまたまフィールドは日本でした。今は日本で活動できて、とても良かったと思っています。

アン・マクドナルド

プロフィール/敬称略

アン・マクドナルド(あん・まくどなるど)

カナダ・モントリオール生まれ。1982年に高校の留学プログラムで1年間滞在した後、1988年に熊本大学の学生として再来日する。1991年ブリティッシュコロンビア大学卒業後、民俗学と農村問題の研究を始め、清水弘文堂書房のライターとして、日本語で13冊の書籍を出版。1994年から20年間、全国環境保全型農業推進会議委員を務め、農林水産省、環境省、内閣府の政府委員会に働き始める。1999年からは、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の第3〜5次評価報告書の環境省レビューチームのメンバー、アドバイザーを務め、日本政府代表の一員として総会に出席。2009年、上智大学地球環境学研究科で非常勤講師に、2011年からは教授となる。

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