良いときも悪いときもニュートラルに。老舗しらす屋七代目が海から学んだ「ほどほど感」

良いときも悪いときもニュートラルに。老舗しらす屋七代目が海から学んだ「ほどほど感」
文:葛原 信太郎 写真提供:山利

仕事でも趣味でも自然と向き合う、しらす屋 山利7代目の木村尚博さん。決してコントロールできない自然との相対し方から、変化が激しい現代を生き抜くヒントを探る。

和歌山の老舗しらす屋「山利」。ふっくら、しっとりとしたそのしらすは生活者のみならず、全国のシェフにも重用され、各地のレストランでも提供されている。

この山利の7代目が木村尚博(きむら・なおひろ)さんだ。物心ついた頃から家業を手伝い、趣味はサーフィン。公私ともに多くの時間を海と向き合いながら過ごしている。

人間にはコントロールできない自然を相手にする木村さんから、変化が大きく、未来を見通しづらい時代を生きるヒントを探っていく。

上京して見つけた「しらす屋」というアイデンティティ

── はじめに、山利について教えてください。100年以上の歴史があると拝見しました。

山利の創業は170年前、僕で7代目になります。初代の名前「利右ヱ門(りえもん)」の「利」をとって「山利」という屋号をつけたそうです。いまではしらすの加工と販売に専念していますが、曽祖父の頃まではしらす漁にも出ていました。

170年も続いているのには、地理的な要因もあります。僕らの拠点である和歌山県和歌山市本脇は淡路島の対岸。昔から、淡路島を経由して四国から本州に入るルートの要所のひとつでした。和歌山県にある高野山から、四国八十八箇所巡りに向かう人々が行き交う場所だったんです。

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── 木村さんご自身が家業を継ぐことは、小さい頃から決められていたのですか。

ふんわりと意識をしていたくらいですね。父からはずっと「しらす屋を継いでも、継がなくてもどっちでもよい」と言われていました。ただし、継ぐのであれば「一度、東京に出ること」「大学を卒業してから2年間はしらす屋とはまったく別のことで生計を立てること」のふたつが条件でした。

子どもの頃から家業の手伝いはしていたものの、他の仕事も知らないし、和歌山を出たこともなかったので「これを続けたい!」と強く思う機会もありませんでした。そこで、まずは東京の大学に進学しました。

── 東京に出てみて、価値観に変化はありましたか?

まさに。特に大きな影響を受けたのは、東京で出会ったプロのファッションモデルのみなさんです。ある日、友人に連れられてとあるイベントに行ったのですが、その主催者は、雑誌のモデルたちでした。しかも、彼らはイベントだけでなく、アパレルブランドも主宰していた。それにすごくショックを受けました。

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当時の僕は「仕事」には自信があったんです。物心ついたときからしらす屋を手伝っていて、高校生くらいのときには一通り仕事もできた。父が長期休みを取る際には任せてもらうこともあり、同世代の中では人一倍仕事の経験があると自負していました。

しかし、東京のイベントで出会った人たちは、カッコいいだけじゃなくイベントや洋服のプロデュースなど、いわゆる「プロの仕事」をしている。しかも、僕がやってきた仕事よりも、規模も大きく、華やか。仕事に対してはあれだけ自信があったのに、完全に負けたと感じました。

ただ、そこで思いがけないことが起こります。「しらす屋」であることにとても興味を持ってもらえたんです。華やかな仕事をしているように見える彼らにとってしらす屋は新鮮で未知の世界。当然しらすについては僕の方が詳しく、いろんな話を聞いてくれました。完全に負けたと思っていたけれど、しらすに関してはそうではなかったんです。そう気づいてから、しらす屋であることに自信を持ちました。

── イベントでの出来事が、家業を継ぐ意志を明確にしたんですね。

そうですね。「しらす屋」は自分のアイデンティティであると、それ以前よりもはっきりとしました。和歌山に戻り、しらすで勝負する。それを決めた時の感情や景色は、今でも覚えています。

大学を卒業し、父との約束だった「大学卒業後は2年間別のことをする」を守るために冷凍食品の会社に勤務。仕事を通じて食品のことを学び、その後、和歌山に帰ってきました。

変えてはいけないことは、見えないこと

── 歴史のある屋号を継ぐには、伝統を守りつつも新しいチャレンジも必要かと思います。伝統を守ることと、時代に合わせて変えていくことのバランスをどのように考えていますか。

多くのことは変えてしまっていいと思います。時代はめまぐるしく変化していますから。実際、僕らを取り巻く環境もどんどん変わっています。変えたことの例を挙げると、近隣のしらす屋や漁業関係者と協力し、ここ数年で漁の時間を制限し始めました。なぜなら、労働環境や近隣への騒音、乱獲など、曖昧だった漁のルールをそのままに運用していくには不都合が出てきてしまったから。漁師も加工業者も持続的に商売を続けていくためには、それらを見直し、制限が必要だと考えました。

ただし、単純に漁を制限するだけでは、漁師は収入が減って困ってしまう。だから、僕らしらす屋が、仕入れの値段を上げることにしました。そのためにそれぞれのしらす屋で、新しい挑戦も始まっています。山利では、ブランディングにより力を入れています。著名なシェフのみなさんに使っていただいたり、横浜駅に新しくできた商業施設に食堂をオープンしたりしているのもその一端です。

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── 逆に変えてはいけないことはなんでしょうか。

僕は「目に見えない」ことが一番大事だと思っています。

昔からのお客様の中にはご年配の方も多く、なかなかお店に来られなくなってしまう方も増えてきました。その代わりに、そのお子さんが買いに来てくださるなど、徐々に世代交代が進んでいます。そういうお付き合いの中には寂しさと同時に喜びもある。

しらす屋は僕ら以外にもいっぱいありますから、純粋にしらすを食べたいだけなら他のお店でもいいはずなんです。数あるしらす屋の中から、何世代にもわたり僕らを選んでくれるということは、時代によっていろんなことが変わってもなおあり続ける「山利」を受け継ぐことができているということだと思っています。

父は僕に「しらす屋は継がなくてもいいが『山利』は守ってくれ」と言っていました。代々守ってきた屋号と、土地やお墓。そういった抽象的な「山利」という存在を守ってくれれば、しらす屋じゃなくてもよかったらしいんです。結果的に僕はしらす屋を継ぎましたが、父は「目に見えないもの」を守ってほしいと伝えたかったのだろうと理解しています。

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家族ができた今は、息子さんと一緒に作業をする日も

── そういった目に見えないものを、息子さんにも継いでいって欲しいと思いますか?

父がそうだったように、僕も息子がしらす屋を継いでも継がなくてもいいと思っています。でも、継ぎたいと言ってくれるような生き方をしたい。

僕の父の少し変わった人でした。僕が高校の頃には、2ヶ月ほど、サーフトリップで海外に出かけていたんです。いわゆる昭和の働き方は、仕事という大きな傘の下に自分のライフスタイルがあったと思いますが、父は自分のライフスタイルを中心に生きていた。サーフィンがしたいから仕事をするんだと言わんばかりでした。

そんな父は、尊敬するプロサーファーに「俺たちはサーフィンが得意だけど、木村さんのしらすはめちゃくちゃうまいじゃないですか」と言われてすごくうれしかったそうなんです。東京での僕の原体験と同じような体験を父もしていた。おもしろいですよね。

振り切れることなく、ニュートラルをキープする

── 木村さんもサーフィンが趣味と伺いました。仕事でも、趣味でも仕事でもずっと海と向き合っていますね。

そうですね。自分の身近にある海をはじめ、自然からは多くのことを学んでいます。自然というのはコントロールができません。これだけ技術が発展しても、天気予報は外れることもありますし、漁獲量も予測できない。大漁でも対応できる体制をどれだけ整えていても、まったくしらすが獲れないときもある。逆に人がおらず体制が手薄なときに限って大当たりが来たりもする。自然にもてあそばれているのかと思うほどに、なかなか予測ができません。

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── 変化の激しいいまの社会も、同様に予測が難しいですね。

自然からの学びは、僕の日常的な思考や、社会での振る舞い方にも影響しています。例えば、あれこれ準備をして臨んだ仕事で思うような結果が出なかった時や、他人が自分の思い通りにならない時、相手に対して不満を持ちがちではないですか?でも、世の中は思い通りにならないことだらけだと初めから理解していれば、不要なイライラを生まないのではないか、と僕は考えます。海で仕事している人は、自然は予測不能なものだと理解しているから、海の状況が思い通りにならないからといって単純に海のことを恨んだりしません。

── 予測できないことに対して備えてもしかたない、とも思えてしまいます。

いえ、準備の必要がないということではありません。準備や備えは不可欠です。重要なのはどう備えるか、どんな心構えで迎えるか。

例えば、いまは新型コロナウイルスにより多くの企業が影響を受けています。しかし、パンデミックは簡単にコントロールできるものではありません。苦難に遭遇している企業もいれば、逆に利益を増やした企業もいます。

パンデミックで経営が苦しくなった企業なら、なんとか回復させようと手を打つでしょう。逆にこの状況下で業績が伸びていたら、さらに伸ばすための備えをするかも知れません。ですが、自然と同じようにコントロールできないものは“今の流れだけ”に合わせても仕方がない。

── では、どう考え行動すればよいのでしょう?

僕は、どちらに転んでも問題がないように、一旦立ち止まり「ニュートラル(=中立)」を維持することこそが大切だと思っています。どこかの領域や方向に極端に傾くのではなく、ほどほどな場所をキープし続ける。

倒れないように、走り過ぎないように、立ち続けることを意識しすればいい。僕は経営を回復させるために無理をしたり、極端な方向に舵を切ったりはしません。不漁の時期に、漁師に「とにかく獲ってこい」なんて言ってもしかたないじゃないですか。現状できる選択肢をあらゆる側面から見て、可能な限りニュートラルに維持できる手を選択します。

そうすれば、予測できない事態が起こっても、大当たりはせずとも窮地に立たされる恐れも減る。予測ができない時代こそ、自然で過ごすように、「ニュートラルでいること」「ほどほどであること」こそ大事になるんじゃないかと思っています。

プロフィール/敬称略

※プロフィールは取材当時のものです

木村尚博(きむら・なおひろ)

1979年和歌山県生まれ。近畿大学付属和歌山高校、明治学院大学経済学部経営学科卒業。大学卒業後、2年間食品メーカーに勤務した後、24歳で実家のしらす屋「山利」に入る。しらすづくりにおいて最も重要な工程である「釜あげ」を担当。2012年、七代目に就任。経営者として店を切り盛りする一方で、サーファーたちへのサポートや和歌山の街を元気にするイベントの開催・協賛など、社会貢献活動や地域活性化のための活動にも尽力している。

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