日本で実質不可能だった酒蔵の新規立ち上げに挑む起業家と考える、偶発的キャリア

日本で実質不可能だった酒蔵の新規立ち上げに挑む起業家と考える、偶発的キャリア
文:森田 大理 写真:須古 恵

広告業界、シンガポールでのサッカークラブ運営を経て、日本酒造りの道へ。紆余曲折のキャリアを歩んできた田中洋介さんに学ぶ、変化が激しい時代のキャリア論

あの出来事がなければ、いまの自分はなかっただろう──。

人生に大きな影響を与えた「偶然」は、きっと誰にだってあるはずだ。この偶然が、ビジネスパーソンのキャリア形成に大きく関わっていると論じるのが、心理学者のジョン・D・クランボルツ教授が発表した「計画的偶発性理論(Planned Happenstance Theory)」である。

「予期せぬ出来事がキャリアを左右する」「偶然の出来事が起きたとき、行動や努力で新たなキャリアにつながる」「何か起きるのを待つのではなく、意図的に行動することでチャンスが増える」という3つの骨子から成り立つこの理論は、目まぐるしく世界の状況が変化するいまの時代、道標のひとつになるのではないだろうか。

今回話を聞いたのは、2021年に新潟県で日本酒の酒蔵「LAGOON BREWERY」を立ち上げた田中洋介さん。同年まで県内の老舗酒造メーカー「今代司酒造」の社長を務めていた田中さんだが、もともとは広告業界出身。その後もシンガポールのサッカーチームでフロントを務めるなど、決して一直線のキャリアを歩んできた訳ではない。

彼が日本酒の世界で生きていくと決断し新たな道を歩みはじめたことは、一見無関係に見えるキャリアも関係しているのではないか。田中さんがゼロからの酒造りに挑む、新潟県北部の福島潟で話を聞いた。

あまり深く考えずに、興味のあることに飛び込んだ20代

田中さんは千葉県出身。学生時代は都内の大学に通っていたものの、毎年春休みや夏休みになると沖縄に出向いてイルカプログラムのスタッフやシーカヤックガイドのアルバイトをするような、自然を愛する青年だった。同級生が就職活動に励んでいるときもそれは変わらず。卒業後も企業には就職せずに、ワーキングホリデービザで自然豊かなオーストラリアへと旅立つ。

「語学を学ぶとか、海外で働いて何かを身に着けるとか、そんな格好良いものではなかったんです。現地でアルバイトをしてお金が貯まったら旅をして…を繰り返していた1年間。その後の人生の道標となるような何かが見つかることもありませんでした。でも、旅の記録をつけて日本の友人にメルマガ形式で報告するのは楽しかった。それで、帰国したら何か表現をする仕事がしたいなと思うようになったんです」

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日本に戻った田中さんは広告の仕事を志す。最初に就職したのは、語学スクール運営会社の広告宣伝部。コピーライターの養成講座にも通い、腕を磨いていた。その後もデザイン会社に転職してコピーライターをしたり、リクルートのグループ会社(当時)で広告の進行管理や商品設計、制作ディレクターの仕事をしたり。その道のりだけを聞けば、20代の田中さんは広告業界でキャリアを築き上げる未来を描いていたように感じられる。だが、実際はそこまで深くは考えていなかったそうだ。

「当時の僕に、広告の仕事を生涯やっていく覚悟があったかと言えば、なかったと思います。単に、その時に興味のあることに飛び込んだ感覚。仕事は楽しかったですし、いろんなクライアントと出会ったことや、会社の個性豊かな仲間から刺激を受けたことは、今でも大事な財産になっています。でも、30歳を迎えようとしていたころに、本当に今の仕事をずっと続けたいのか、疑問が湧き上がってしまって。違うことをやってみたいなと、引き際を意識するようになりました」

しかし、仕事を辞めるといっても、明確に次のキャリアが見えていたわけでもなかった。転機となったのは当時の同僚との何気ない会話。「田中さんが好きそうな面白い会社があるんだよ」と、あるクライアントを教えてくれた。その会社こそ、田中さんがその後10年以上在籍することになる新潟県の企業、NSGグループ。教育・医療福祉事業を中核としながら多角的な事業運営をしている同グループには、日本酒の酒蔵もあった。すべては偶然の出会いのように思えるが、実はこの偶然を手繰り寄せたのは、田中さんの普段の行動も大いに関係している。

「学生時代からずっと、日本酒を飲むのが好きだったんです。いろんな人と飲みに行っては酒の話をしていたので、いつの間にか田中=日本酒というイメージを持ってくれたんでしょうね。同僚がある日『酒蔵を傘下に収めて経営再建に乗り出そうとしてる面白い企業がある』と教えてくれたんです。そのときまで、自分が酒に関係する仕事をしようなんて、まったく考えもしていなかったんですよ」

つまり、田中さんは「日本酒好き」な自分のキャラクターを周囲の人に知ってもらうことで、無意識的にキャリアにつながるきっかけの種を蒔いていたのではないか。好きなことを仕事にするには、自ら掴み取ろうと果敢にチャレンジするだけでなく、自分の「好き」を普段から発信し続けることで拓ける道もあるということだろう。

日本酒に本気で挑む覚悟をさせてくれた、シンガポール時代

偶然聞いた話に興味を持った田中さんは、20代に情熱を注いだ広告の仕事に区切りをつけ、東京から新潟の会社に転職をした。ただ、この時も日本酒を一生の仕事にしようと思っていた訳ではなかった。本人いわく、「直感で楽しそうだと思えたものに飛び込んだ感覚」。

そうした田中さんのキャリア観も影響しているのか、転職をして最初に挑戦した仕事は、実は日本酒の仕事ではない。同グループにはシンガポールプレミアリーグに所属するプロサッカーチーム「アルビレックス新潟シンガポール」があり、この事業運営を担うフロントスタッフとして、シンガポールに渡ったのだ。

「日本酒に携わりたい気持ちは伝えた上での転職だったのですが、当時の僕は30歳で広告の仕事しかしたことがない。日本酒もいずれは海外へ羽ばたかないといけないのだから、まずは外で勉強してこいという意図でした。ただ、僕はサッカーも好きだったので、この道も面白そうだなと。どんな形であれチャンスをもらったなら、全力でやってみようと思ったんです」

シンガポールではチーム運営全般に携わり、営業や企画・広報などを手掛けた。特に大きなミッションだったのは、新たな収益の柱としてスタジアムに小規模な遊技場を併設すること。政府の認可が必要な事業だったため、海外資本の企業にはそれなりにハードルがあったそうだが、会社の仲間とともに見事完遂。チームの財源が増えたことで選手の育成・強化ができ、現在では毎年タイトル争いができるクラブへと成長しているという。

仕事は順調だった田中さんだが、当初3年間の予定だったシンガポール勤務を2年に短縮して2012年に帰国。彼がその決断をしたのは前年に日本で起きた出来事、東日本大震災がきっかけだった。

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「遠く離れた外国にいた自分には、現地で寄付を呼びかけることくらいしかできなかった。あのときほど自分の無力さを感じたことはありません。居ても立っても居られませんでした。

また、日本という国がたくさんの人から愛されていることも実感しました。普段から日本の和の文化や、アニメなどのポップカルチャーに親しんでいる人が多いことは知っていましたが、震災が起きて『ヨースケのファミリーは無事なのか?』とみんなが日本をとても心配してくれたことが嬉しくて。これは海外に日本の魅力を伝えてきた先人たちのおかげだなと思い、僕も早く自分の大好きな日本酒で恩返しがしたいと強く思ったんです」

経営不振の酒蔵を立て直すために活かされた、広告業界のノウハウ

帰国した田中さんは、満を持して日本酒の仕事に携わるべく、今代司酒造株式会社に転籍。2年間の営業部長を経て、2014年に代表取締役社長に就任する。この道筋だけを聞けば輝かしいキャリアだが、日本酒を造ったことも売ったこともない人が、いきなり実績を出せるものなのだろうか。しかも田中さんが経営再建を託された今代司酒造は、1767年創業の老舗。歴史と伝統に囲まれた環境で、田中さんは何を変えたのだろうか。

「たしかに会社に入った時点では、自分が自信を持って動けることはあまりなかったかもしれません。ただ、外からやって来た者だからこそ一歩引いた目で見て、気づいたことがあります。それは、『物は良いのに、無理して価格競争をしていた』こと。今代司は純米酒にこだわった酒蔵ですが、よりコストの安い普通酒との価格差を埋めようと値引きが定常化し、利益を圧迫していました。

それでも売れないので、蔵人(くらびと=日本酒造りの職人)たちも飛び込み営業をさせられていた。これでは成果が出にくいだけでなく、社員のモチベーションも下がる一方です。そこで、商品の良さが伝わるように、酒瓶のラベルやパッケージデザインをリニューアル。若者や女性をターゲットにリブランディングしました」

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このアプローチは、田中さんがかつて働いていた広告業界のノウハウに通じている。たとえば、祝いの席や贈答用に、ボトルを錦鯉に模した商品を発表。国内のみならず海外の日本酒ファンにも人気を呼び、カンヌライオンズをはじめ世界各国のデザイン賞を受賞した。この成果は、田中さんが今代司にマーケティングの視点を入れた影響も多分にあるだろう。海外に開いたマーケティング戦略を据えたのも、田中さんのシンガポール時代の経験を活かしたものだ。

また、競合優位性や自社ならではの特色を見極め、直販を拡大。田中さんが注目した今代司酒造の強みは、新潟駅から一番近い酒蔵だったこと。一般客の酒蔵見学に力を入れ、コロナ禍前は1日100人の見学者が訪れるような場所に育て上げた。

「駅から歩ける距離にあったので、根っからの日本酒ファンだけでなく、新潟観光やビジネス来訪のついでにふらっといらっしゃるお客様も多くいました。私たちが直接酒の魅力をお話することでお客様との結び付きが強くなり、見学時の購入だけでなくECサイトで定期的に購入してくださることにつながったんです」

「人よりも10年遅れ」と自覚しているからこそ見えるもの

毎年赤字が続いていた酒蔵を立て直し、日本はもちろん世界にファンをつくることにも成功した田中さん。着実に築いてきた基盤があったからこそコロナ禍でも業績は堅調だったという。しかし2021年の8月、代表取締役社長の退任を発表。ゼロから新たな酒蔵「LAGOON BREWERY」を立ち上げるという新たなチャレンジに挑んでいる。その背景には、日本酒の製造免許制度が変わったことがあった。

「国は日本酒産業を保護する目的で、製造免許の取得には厳しい条件を課しており、これが要因で実質的に新規取得が不可能な状況が続いていました。そのため、新規参入するには莫大なコストを払って免許を持つ既存の酒蔵を買収するしかなく、新たなプレイヤーが生まれにくかったんです。このままでは、業界がポジティブに発展していかないのではないかと思っていました。

それが、2021年の4月より『海外への輸出用の日本酒に限る』という条件つきで免許取得の規制緩和があった。もちろんこれは抜本的な変革ではないし、大きな壁に空いた小さな穴のようなものです。でも、海外とのネットワークもあり、酒蔵の経営を担ってきた僕なら、小さな穴をわずかでも広げられるかもしれない。後に続いてくれるかもしれない、日本酒を愛する多くの人たちのために、先陣を切って成功モデルをつくりたいと思いました」

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LAGOON BREWERYが手がける『翔空』

以前から、いつかは自分で酒蔵を立ち上げることを夢見ていたと語る田中さん。そのチャンスが目の前に現れたときに迷わず飛び込んだという意味では、これまでのキャリアチェンジと変わらない田中さんらしさが滲みでているように感じられる。しかし、本人にとって今回の決断は大きく意味が異なるそうだ。

「これまではどこかの企業に属してきましたが、はじめて全く雇われていないですからね。上手くいったことも悪いこともすべて自分で背負うし、自分が諦めたらそこで終了。後ろに誰も控えていないのは前職の社長時代とも違います。でも、迷わず飛び込めるのは40代前半の今がラストチャンスという気持ちもあったんですよね」

田中さんは、インタビューを通して自身のキャリアを振り返ってもらう中で、「人よりも考える時間がたくさん必要な人生だった」と語ってくれた。友人の中には、学生時代に決めた道を一直線に進み続けている人もいる。それに比べて、自分が人生をかけて向き合うと決めた日本酒の道に入ったのは32歳。心のどこかで人より10年くらい遅れていると悔しい気持ちもあったという。しかし、今彼が進んでいるのは、20代・30代の紆余曲折があったからこそ拓けた道でもあるのではないか。

「随分遠回りをしてきた感覚がある一方で、最初から見ていた方向は同じだったような気もします。というのも、地酒造りはその土地の米や水を使うので、地域の自然を表現するようなもの。日本酒を海外にアピールすることは日本の文化や自然をPRすることに通じます。学生時代に沖縄の海に魅せられたり、オーストラリアを旅したりしていたことと、一見違うようで今も同じことをしているのかもしれないですね」

プロフィール/敬称略

※プロフィールは取材当時のものです

田中 洋介(たなか・ようすけ)

1979年生まれ、千葉県出身。大学卒業後、オーストラリア生活を経て広告業界へ。30歳の節目を機に新潟県に本社を構えるNSGグループへ入社。2年間のシンガポール駐在を経て、同グループ傘下の今代司酒造へ。営業部長を経て2014年に代表取締役社長に就任。2021年に同社社長を退任し、LAGOON BREWERY合同会社を設立。従来は実質不可能と言われていた日本酒の製造免許を新規取得し、ゼロからの酒蔵立ち上げに挑んでいる

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