鍵は妄想と好奇心。R不動産や泊まれる公園を手がけた建築家に聞く、アイデアの源泉

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文:葛原 信太郎

柔軟な視点でアウトプットを出し続けるために、必要なこととは。雑誌の編集長にリノベーションブームの火つけ役など「建築家」の枠組みに捕らわれない八面六臂の活躍を続ける馬場正尊さんに聞く。

日々の仕事で、新しい企画やアイデアを求められることは少なくない。しかし、パッと浮かぶのは、どこかで見たり、聞いたりしたことのあるものばかり……。既成概念に囚われない革新的なアイデアを生み出す人は、どのように考えたり、世の中を捉えているのだろうか。

今回話を聞いたのは、建築設計を基軸としながらリノベーション、公共空間や地方都市の再生、本やメディアの編集・制作を事業とするオープン・エー代表取締役で、建築家の馬場正尊(ばば・まさたか)さんだ。

2003年、不動産を広さや間取りではなく物件が持つ味わいや改変可能性などから探せる「東京R不動産」をスタート。それまで日本ではあまり知られていなかった「リノベーション」という概念を世に広めた。その後、学校やスポーツセンターなど公共施設とそれを利用・購入したい企業や個人をマッチングさせる「公共R不動産」や、公園の中にある宿「INN THE PARK」の運営など、いわゆる建築家の枠に収まらない事業を展開してきた。その背景には、雑誌の編集長や大手広告代理店でキャリアを積んだこと、緑内障を患い小さな文字や人の顔の識別にハードルがあることなどの影響があるようだ。

これまでに存在しなかったさまざまな事業を展開する馬場さんの創造性は、どのように育まれてきたのか。そのキャリアとともに、物事を柔軟に考えるヒントを聞いた。

大学時代に出会った「開放系技術」とインターネット

── 馬場さんは「東京R不動産」で物件の探し方を変え、リノベーションによって物件の価値や公共空間の捉え方も変え、それまでなかった柔軟な視点で事業をつくられてきました。いわゆる「建築家」に囚われない馬場さんの原点はどこにあるのでしょうか。

僕が大学時代に所属していた研究室の石山修武先生の影響が大きいと思います。先生は、強烈な造形を作る前衛的な建築家でありながら、建築領域だけに留まっていられない人でした。

日本で初めてツーバイフォー材をアメリカから輸入するなど流通に興味を持っていたり、多くの本を執筆したり、建築を飛び越えてさまざまな領域にアプローチしていました。特に印象に残っているのは先生の著書『現代の職人』(晶文社、1991年)です。職人はどんな思考プロセスを持ち、どんな考えでアウトプットをしているかを探るインタビュー集なのですが、取材対象には、左官職人や鉄職人にまじり、樹木希林さんもいらっしゃる。職人というキーワードで選んだ人の中に「女優 樹木希林」がいるのが先生らしい柔軟さです。

── 石山先生の独特な価値観に惹かれたのでしょうか。

実はそう単純でもないんです(笑)。もちろん、先生の実践には共感していました。ですが、建築にここまで作家性や作り手の“らしさ”を込めてもいいのだろうか、という葛藤も同時に抱えていたように思います。そのころから僕は、多くの建築は特定の人だけでなく、不特定多数の人が使ったり見たりする公共性の高いものだと考えていたので。

── 『RePUBLIC 公共空間のリノベーション』『PUBLIC DESIGN 新しい公共空間のつくりかた』などの著作や、公共R不動産など、馬場さんは「パブリック」に関する仕事が多いですよね。大学時代から、パブリックにも着目していたということしょうか。

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馬場さんの著書。左:『RePUBLIC 公共空間のリノベーション』/右:『PUBLIC DESIGN 新しい公共空間のつくりかた』

そうだと思います。当時、石山先生は「開放系技術」という言葉をよく使っていました。「技術」とは、特定の誰かや何かに帰属するのではなく、解放されて誰でも使えるほうがいいのではないかという投げかけです。それが僕の思考にとてもフィットしました。

実は自分の事務所を「OpenA」と名付けたのもここに着想を得ています。OpenAとは「オープン・アーキテクチャー」の略で、2つの意味がある。

まずは「建築を開いていこう」という意思です。最初に述べた石山先生からの影響に由来して、建築を解放していくことで、社会にインパクトを与えたり、世界を面白くするものでありたい、と思うようになりました。

もうひとつは、設計や仕様などを公開することを表すコンピューター用語としての「オープン・アーキテクチャー」です。僕が学生のころは、インターネットやパソコンが少しずつ一般の人に普及してきた時期。それと同時に、LinuxというオープンソースのOSが広がったことで、技術者がたくさんの新しいサービスやソフトウェアを生み出しました。技術の開放が、社会のクリエイティビティをあげていく様子をリアルタイムで体験したのです。

僕らが実行するあらゆる取り組みは、社会の共有財産としてオープン・アーキテクチャーでありたいし、どんどん解放していきたい。大学のときに考えていたこと、体験したことが、事務所の名前であり、自分の基本姿勢でもあるんです。

「伝え方」を考え、結果「伝えるための媒体」を手に

── 大学卒業後は建築の道へ?

いえ、新卒では広告代理店に就職しました。建築を開放していくためには、専門性がない人にも届く「伝え方」が重要だと感じていたからです。広告代理店は、コミュニケーションのプロなので、なにか掴めるだろうと考えました。

しかし、働きだしてみると「自ら媒体を持って情報発信ができないこと」の不自由さに目が行くようになりました。広告代理店にいると自分のメディアは持てません。当たり前なんですが、仕事の競合を、自分で作るわけにはいかないので…。それに気づいてから、自分のメディアを持つテレビ局やラジオ局がうらやましくてたまらなくなりました。

大学の頃、僕は仲間と一緒に同人誌を作っていたんです。SNSが普及した今では想像もできないかもしれませんが、インターネット以前の情報の伝わり方は、「マスメディアから個人へ」というルートしかほぼありませんでした。社会人となった今の自分が考えていることを伝えたい。しかし、マスメディアではそう簡単に使えるものではない。そんなとき、影響力は少なくても、自分の考え方をインディペンデントに伝える方法だったのが雑誌でした。

そこで、会社を休職して大学院に通いつつ、仲間を集めて『A』という雑誌を発行することになりました。2年後には復職したのですが、会社の状況の変化もあって、独立してOpenAを設立したんです。

メディアって面白いんですよ。僕は「魔法のじゅうたん」だと思っています。

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馬場さんが編集長を務めた雑誌『A』。建築と都市論、サブカルチャーの活性面にあるメディア。

── 魔法のじゅうたん?

「インタビュー」という魔法の言葉で、あらゆる人に会いに飛んでいけるでしょ?(笑)今でも本当に思い出深いのは、宮崎駿さんに取材ができたことです。「あなたの映画のことを聞きたいわけじゃない、あなたが都市について考えていることを聞きたいんです」と、ラブレターのように思いを込めて手紙を出したら「それなら答える」と返事をくれました。

魔法のじゅうたんに乗り興味があるところや新しいムーブメントを探しに行けるし、媒体を通じて探したものを集めて届けることもできる。こうした特徴を活かして、僕はいつもプロジェクトを動かすドライバーとしてもメディアを使っています。社会に対しての妄想や問題提起をビジュアルやテキストで届ける。そこから返ってくる反応をリアルなプロジェクトに結びつけていくんです。

例えば、『A』では『東京計画2000』という特集を組んだことがあります。元ネタは日本を代表する建築家 丹下健三さんの『東京計画1960』という構想でした。東京湾を埋め立てて、海上都市のようなメガストラクチャーをつくるというある種の「妄想」をまとめたもの。1960年から40年経ち、僕たちはどんな妄想ができるだろうかと練った企画です。

雑誌に載せたのは、海上都市のような大きな建築を建てるのではなく、高速道路の下の隙間や道路拡幅で余った小さな土地を活かすアイデア。インターネットやテクノロジー、アートを使って都市を面白くする方法…。40年前とはまったく違う発想で、東京計画をまとめてみました。

いざ店頭に並ぶと、読んだ人がとても面白がってくれて、将来のOpenAの仕事につながっていった。さらに言えば、街の中にある遊休不動産や公共空間の活用など、今まさに自分が事業にしていることにも直結している。妄想に反応をくれる人がいて仕事につながったり、妄想がブラッシュアップされて、時を経て実現できたんです。

事業は次第に大きくなり、仲間も増えてどんどん面白い仕事ができるようになってきた。そんな矢先、30代後半で緑内障が発見され、しかもひどく進行していることがわかりました。目が見えなくなってきたのです。病気が進行すると、段々とできないことも多くなっていきます。

失うことで、得たもの

── 図面やデザインを扱ったり、クライアントさんとコミュニケーションをとったり、文章を書いたり、あらゆる場面で病気の影響があるかと思います。病気を患ったことで、物事の捉え方に変化はありましたか。

病気の影響はとても大きいです。もし、まだ視力が十分に残っていたら、表現の仕方も組織の作り方も、今とはまったく違っていただろうと思います。

当たり前にできていたことができず、最初はかなり落ち込みました。でも、そうも言っていられません。できないなら、できないなりにできる方法を模索するようになりました。サッカーは手が使えないから面白いし、サッカー独自のプレーが生まれるということと似ているかもしれません。

模索する中で、建築家としてはかなり思い切った決断に聞こえるかもしれませんが、「細部へのこだわり」を手放しました。例えば、文章をタイピングするのは難しいけど、音声認識でシンプルな文章は入力できる。この方法だと、テクニックやレトリックを使った「かっこいい文章」は書けませんが、気楽な言葉選びで読み取りやすい文章ならつくれます。形式に囚われなくていい免罪符をもらったようなもんだと思っていますし、その免罪符に救われているところもあるんです。

何かを失いながら何かを得ている感覚ですね。自分ひとりで物事を完結させる能力を失った代わりに、優秀なメンバーを得てチームは大きくなりました。どんな仕事であっても自分だけではできないので、他者と一緒に物事を進めなければいけません。すると、関わる人が増えて、事務所は必然的に大きくなりました。

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OpenAの事務所はシェアオフィスにもなっており、社内外のさまざまな人がつながる。

今では雑誌をつくるように、あらゆる個性や能力を編集しながらプロジェクトを進めています。個々の能力とネットワークや集積が僕たちの強み。メディアに作品を発表するときにも、関わったメンバーの名前をなるべく多く出すようにしています。一般的には「○○建築事務所」という組織名と代表の名前くらいしか載せないんですよ。事務所としての作品性は少し薄らぐかもしれませんが、その分メンバーの個性がにじみ出るので。

── 「手放す」や「積極的に諦める」代わりに、スタッフと一緒に進める。個人ではなく、チームとしての成長をしてきたんですね。

とはいえ、手放す加減にはいまだ苦労している最中ですよ。細部まで気が回わせていなかったり、色や形がイメージから若干ずれていたり、問題があったときの責任の取り方や介入の方法は今も日々頭を悩ませています。プロフェッショナルとしては全権を委任するわけにはいかないと思う部分もありますね。適度な介入と責任の取り方、そこが鍵だと思うし、難しさでもある。言葉でまとめればきれいに収まるけど、現場は試行錯誤でぐしゃぐしゃです(笑)。

引き出しを増やし、具体化させて社会に問う

── ここまで、馬場さんの物事の捉え方とその背景を、キャリアから紐解いてきました。それらを総括し、馬場さんのように「柔軟な視点」を持つために大事なことは何だと考えますか?

そうですね。まずは引き出しを増やすことだと思います。僕は大きく2つのアプローチをしてきました。

ひとつは、好奇心を大切にすること。面白そうなことやひっかかることに、素直に反応してふらりと出向いてみると、不思議と意外な出会いがあります。出会いといっても、人だけではなく、ものや風景、技術などさまざま。僕には「魔法のじゅうたん」があったので、取材を通じて海外の新しい建築や公共空間の使い方と出会うことで、ずいぶんと思考が拡がりました。

もうひとつは、妄想を拡大していくこと。例えば、僕らは公園と宿泊施設を組み合わせた『INN THE PARK』という施設を運営しています。これは最初、少年自然の家という公共施設の再生プロジェクトだったんです。しかし、僕たちは施設の周りに広がる公園も含めて再生を考えた。最終的な案では、少年自然の家は大きな妄想のほんの一部でした。そんな妄想の拡大を評価していただき、事業化に結びついたんです。

僕の場合、こうして好奇心や妄想で引き出しを増やし、少しずつ具体化させて世の中に提示してきました。新著の『テンポラリーアーキテクチャー』では、大小いろんな事例を探しに行きつつ、コラム的に妄想のケーススタディーをたくさん載せています。妄想を心の中にしまっておかず、文章やイラストにして社会に出してみることを意図的にやってきているんです。最初に紹介した『東京計画2000』なんて、完全に妄想集ですから。

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『テンポラリーアーキテクチャー(学芸出版社)』の妄想アイデア

── いいアイデアを思いついたとき「大切に隠しておいて、いざというときに使おう」と考える人のほうが多いかもしれません。

僕の経験では、引き出しに鍵をかけずどんどん世の中に出すことでいい結果につながってきました。そもそも、自分のアイデアなんて大したことないって思っていますから。もったいぶらないで、社会から反応を受けてみる。そうすると、自分では気づけなかったそのアイデアの「意味」が見つかることもあります。

もちろん、妄想ばかりでは事業としての収益確保は怪しいですよ(笑)。バランスは大事です。でも、予定調和なことばかりをやっていても、面白くないじゃないですか。それじゃあ、停滞していくばかりだと思うんです。

プロフィール/敬称略

※プロフィールは取材当時のものです

馬場正尊(ばば・まさたか)
オープン・エー代表取締役/建築家/東北芸術工科大学教授

1968年佐賀県生まれ。1994年早稲田大学大学院建築学科修了。博報堂、早稲田大学博士課程、雑誌『A』編集長を経て、2003年OpenAを設立。建築設計、都市計画、執筆などを行い、同時期に『東京R不動産』を始める。2008年より東北芸術工科大学准教授、2016年より同大学教授。2015年より公共空間のマッチング事業『公共R不動産』立ち上げ。2017年より沼津市都市公園内の宿泊施設『INN THE PARK』を運営。近作は『Under Construction』(2016)『旧那古野小学校施設活用事業』(2019)など。近著に『民間主導・行政支援の公民連携の教科書』(学芸出版 2019 共著)、『テンポラリーアーキテクチャー:仮設建築と社会実験』(学芸出版 2020 共著)など。

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