道路づくりから地域づくりへ 高速道路の歴史から紐解く「平成」と自動運転時代のこと
拡大→縮小→見直し→進化。高速道路の変化は、時代の映し鏡だった。日本の大動脈から「平成の変容」を探る
平成というひとつの時代が終わり、『令和』がスタートした。私たちはこの新時代に何を思い、どんなことを考えていくべきかーー。デジタルテクノロジーの劇的な進展、経済の低迷や大規模災害など、変転著しい31年が私たちにもたらしたものを振り返るとき、そこにはさまざまな思考のタネやアイデアが見つかるに違いない。"平成的思考"から脱却し、新時代を生き抜くための来たるべき未来を予測していく。
2019年5月26日、東名高速道路は全線開通50周年を迎えた。国の東と西を結ぶ、まさしく日本の大動脈といえる道路だ。東名をはじめとする高速道路が全国に整備されているからこそ、あらゆる人、物の移動が支えられている。そういった意味で、高速道路と無縁な人間はいないだろう。
ETC、渋滞予測、自動運転を見据えたテクノロジーによる変化、サービスエリアのリニューアルにおけるサービス業としての変化、さらには平成の間に幾度となく日本を襲った自然災害と高速道路...。今回は、東名高速を管轄する中日本高速道路株式会社の経営企画本部 経営企画部長 松井保幸氏に、高速道路の変化から見える平成、そして令和について話を聞いた。
拡大志向の昭和〜平成初期
― 高速道路における平成とは、どんな時代でしたか?
高速道路は、平成の経済的な盛衰や社会的な出来事に連動するように変化してきました。昭和を、高速道路網を全国に整備するためにひたすら「つくってきた」時代とするならば、平成は「つくる以外の方法を模索した」時代です。昭和につくった高速道路を、どうやって採算性を確保しながら改善していくか。これに注力してきました。
― 「つくる以外の方法を模索した」平成について、時代を追って聞かせてください。
昭和から平成にかけて、東名高速は渋滞と向き合ってきました。昭和に日本全国7,600kmあまりの高速道路が計画され、東名高速道路は昭和44年に完成しました。その後高速道路の効果が実感され、全国で高速道路の整備が進んでいきます。しかし、日本経済の成長と共に、更なる高速道路ネットワークの拡充が望まれました。東名もすぐにいたるところで渋滞が発生し、機能麻痺が起きていたのです。
渋滞は円滑な交通を妨げるだけでなく、事故を生むなど危険をつくりだします。とくに渋滞のひどかった厚木IC~御殿場IC間を4車線から6車線に拡幅するなど渋滞改善のために改良を重ねますが、抜本的な対策として昭和62年には、新東名・新名神の建設が決定され、高速道路ネットワークの全長も当初の計画の倍となる14,000kmになりました。
― 当時の日本の勢いを感じさせる拡大ですね。しかし、平成のスタートとほほ同時にバブル崩壊が訪れます。景気と高速道路の計画は相関したのでしょうか。
おっしゃるとおり、それまで拡大路線だった高速道路計画にも陰りが見え始めます。当時、私たちはまだ日本道路公団だったのですが、不景気になるにつれ、採算性が疑問視されるようになり、平成10年には初めて交通量が前年を下回る事態となりました。
国民の皆様からも「このままで大丈夫なのか」という不安の声が高まり、拡大一辺倒になるのではなく、採算性を考慮し取捨選択する。本当に必要な道路なのか、熟慮する。もっと民間の知恵や方法を取り入れるようにしなければといった変化が生じます。この流れが、平成17年10月の民営化へとつながっていきました。
民営化を経て、平成後半は顧客志向へ
― 民営化によって、どのような変化があったでしょうか。
拡大を前提とした力技ではなく、あるものを活かすことを主軸に据えました。例えば、ドイツの高速道路では、渋滞時には路肩を一般車両が走れるなど、柔軟なルールがあります。新東名の開通時には、これを参考にしました。まず静岡側が開通したことにより、愛知側での渋滞が激しくなります。民営化前の発想であれば、土地を買って愛知側の道路を拡幅していたでしょう。しかし、私たちは新東名愛知県区間が開通するまでの期間限定で愛知県側の東名高速道路の一部区間を車線の幅を狭くすることで路肩部分も活用し、4車線の道路を6車線で走れるように改良しました。これは非常に有用で、今ではさまざまな場所で実施されています。
― 今あるものを利用してすぐにできる施策のほうが、工期も短く、利用者にとってもメリットがありそうですね。
そうですね。お客さま視点を大切にしはじめたのもこの頃からです。例えば、サービスエリア(SA)。昭和から平成の初期にかけて、SAはいわば付属品。それ自体を向上させるという発想はありませんでした。しかし、お客さまのことを考え、「サービスの向上」を目指すときに、全国にあるサービスエリアは重要な拠点になります。談合坂や海老名などいくつかのサービスエリアを、複数のテナントが入る商業施設「EXPASA(エクスパーサ)」としてリニューアルさせました。
― 新東名では、SAごとに個性があり、より注力されたことが分かります。
新東名では、SAをひとつの核としました。ゆとりをもった敷地面積を確保し、地域の特徴を出せるように設計段階からコンセプトを検討したのです。
例えば、浜松は、ヤマハや河合楽器製作所が拠点を構える音の町ですから、デザインにピアノのモチーフを取り入れ、演奏スペースを取り入れました。
清水SAのコンセプトは「くるまライフ、コミュニティパーク」。車やバイクの展示スペースを設けています。駿河湾沼津SAはコンセプトを「リゾートマインド」として、ヨーロッパのリゾートのようなデザインを取り入れています。こういった取り組みは、お客さまに支持をいただきました。
― ETCが全国で使われ始めるのも、平成における高速道路の大きな変化ですよね。
ETCは、平成6年ごろから研究が始まり、全国展開されたのは平成13年。ETC以前は、全国の渋滞の1/3が料金所で付近発生していました。これを改善するのがETCの大きな目的です。導入当初は利用率が低くかったのですが、民営化前後で実施したETC限定割引を経て利用率は徐々に向上。平成20年ごろには料金所の渋滞はほとんど解決しました。今では利用率が9割を超えています。
ETCの導入のおかげで、SAから一般道へ降りることができるスマートインターチェンジも好評です。ETC導入前のインターチェンジは、料金所をつくり、人を配置する必要がありましたが、スマートインターチェンジならちょっとした工事で設置可能です。さらに最近では、料金所以外にも活用されるなど、その役割を確実に広げてきていますね。
― 料金所以外で、ETCはどのように活かされているのでしょうか
今運用されているのは、改良型のETC2.0。電波帯を変えたことにより、より多くの情報がやり取りできるようになりました。それぞれの車がどのくらいのスピートで走っているのか、どこでスピードが落ちるのか、そういった情報を受け取っています。
複数の車の速度が急に落ちている地域があれば、渋滞の発生箇所を即時に知ることができます。また、ある箇所で日常的に速度が落ちていれば、なにか危険な要素があって、複数のドライバーが無意識的にブレーキを踏んでいる可能性がある。安全対策にも繋がっています。
災害と共に進化した高速道路の安全対策
― 高速道路と平成を考えたときに、欠かせない要素として自然災害があると思います。
そうですね、私自身、入社から8年ほど橋梁設計を担当していましたので、阪神・淡路大震災の時は大きな衝撃を受けました。地震が起きたのが月曜日。そのまま金曜日まで東京本社の対策本部に詰め、最初の週末に現場を見に行きました。西宮までは電車で行けましたが、西宮から三宮までは鉄道が完璧に崩壊していました。
そこで、リュックを背負い、歩いて高速道路が倒れている現場まで向かったのですが、本当に衝撃的な光景でした...。「日本の橋は倒れない」というのが、当時の技術者の認識だったんです。平成の間は多くの地震が日本を襲いましたが、阪神・淡路大震災の経験から、必ず現場に向かい、自分自身の目で見るようになりました。技術者として、身をもって知っておかねばならないという思いからです。
― 平成7年の阪神・淡路大震災以降、高速道路の自然災害との向き合い方も大きく変化したのではないでしょうか?
全国で橋の補強工事が行われ、特に古い耐震基準で作られている橋の補強は終えています。事実、東日本大震災では落橋はありませんでした。しかし、平成23年に起きた東日本大震災以降、高速道路は落橋対策だけでなく、「一刻も早く復旧すること」が求められるようになっています。
東日本大震災では、地震だけでなく津波によって広域に被害が発生しました。多くの一般道は遮断され、高速道路は災害時の輸送路として重要なインフラでした。そこで、確実に通れる東北道を「くし」の「背」に見立て、そこから沿岸地域への道を「歯」のように切り開いていく「くしの歯作戦」が実行されました。これが非常にうまくいったこともあり、多くの自治体の防災対策は、高速道路を起点にして計画されるようになりました。
つまり、高速道路は災害時でも止めてはならない。すぐさま「いつもどおりに通れる」ようにせねばなりません。平成27年の熊本地震では、高速道路の橋は落橋こそしませんでしたが、道路に段差が発生しました。段差があれば、車は通れません。災害時にも段差が生まれないように、段差が生まれたとしても応急措置で通行できる範囲に収まるように、従前よりレベルアップした補強工事を全国で進めています。
道の会社から抜け出し、可能性を広げる令和
― 今年5月、年号は令和となりました。令和の時代において、高速道路ではどんな変化が生まれるでしょうか。
昭和、平成で作り上げたものを、令和時代でより良くしていく、更に進化させていかなければならないと思っています。2012年には、笹子トンネル天井板崩落事故が発生し、9名もの尊い命が失われ、多くの方々が被害に遭われました。二度と同じような事故を起こしてはならない。すぐさま老朽化した設備の保守、点検を行いました。
私どもが管理している施設の6割はすでに30年を超えています。これらの安全を確保し、補修すべきところは工事する。これは喫緊の課題です。現状、高速道路の保守は、ほとんど人の力に頼っています。私たちのグループだけでも1万人いて、関係会社まで含めるともっと多くの人が関わり、運用していますが、今後、それだけの人数を確保できる保証はありません。ICTやセンサー技術を用いて、より安全で快適な高速道路を維持していかなくてはならないでしょう。
― 令和では、自動運転も着実に普及していくと思います。それに向け、高速道路もすでに向き合いはじめているのでしょうか?
おっしゃるとおりです。1台目のトラックはドライバーが運転し、2台目、3台目のトラックは自動運転で前のトラックに付いていく「隊列走行」は、実証実験をスタートしており、実現に近づいてきました。将来的には1台目もドライバーがいらなくなるでしょう。自動車メーカーや国と共に、実験・研究を進めています。
― 自動運転の実現にあたって、高速道路にはどんなことが求められているのでしょうか。
例えば、合流部分における安全対策は物理的な道路の構造を変える必要があるかもしれませんし、落下物や工事の情報提供も必要です。自動運転専用レーンも必要かもしれません。自動運転が前提なら、車線の幅はもっと狭くていいでしょう。余ったスペースで何が新しい試みができるかもしれません。
一般のお客さまの車が自動運転になれば、運転に集中する必要がなくなる。鉄道のグリーン車にいるように車の内で過ごすとしたら、高速道路やサービスエリアの役割も変わるでしょう。昭和、平成と「私たちは高速道路のプロ。私たちが一番わかっていて、私たちがやる」というスタンスでした。しかし、これからは「高速道路はみんなのもの。様々な人と一緒により良くしていこう」という時代になると思います。
― 高速道路がみんなのものになる令和、どんなことを大切にしていきたいですか?
これは個人的な考えですが、長くこの仕事をしていると「私たちは何者なのだろう」と考えることがあります。高速道路はもちろん大切ですが、もっと広い視野を持つと、私たちは「地域をつくる人」なのではないかと。そう再定義すれば、「高速道路」から離れてもっと地域に出ていくべきだと考えています。高速道路会社から見ればSAは休憩所ですが、地域をつくる会社であれば違う目線を持つことができる。私たちは高速道路の「コーディネーター」です。もっといろいろなプレーヤーに入ってもらうことで、私たちは「道の会社」の枠を超えて、もっと大きな可能性を持てると思います。そのためには、私たちが物理的にも心理的にも変わっていかなくてはいけない。「令和」は、そんな変化を起こしていく時代にしたいですね。
プロフィール/敬称略
※プロフィールは取材当時のものです
- 松井保幸(まつい・ やすゆき)
- 中日本高速道路株式会社 経営企画本部 経営企画部長
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愛知県出身。東京大学土木工学科卒、マサチューセッツ工科大学土木環境工学コース修了。1987年日本道路公団入社。2004年国土交通省道路局有料道路課課長補佐、2014年NEXCO中日本経営企画チームリーダー、2017年東京支社建設事業部長を経て、2018年より現職。