博士号を取得した研究者が、新卒で投資家に。かつての劣等感が「強み」に変わった理由

博士号を取得した研究者が、新卒で投資家に。かつての劣等感が「強み」に変わった理由
文:石田哲大 写真:須古恵

研究によって生まれた革新的な先端技術「ディープテック」の分野を専門とする投資家(キャピタリスト)、川口りほさん。研究者から投資家という一見ユニークな「回り道」から得たものとは。

「何かに好きなだけ没頭したい」──そんな願望を持つ人は少なくないが、実際にその道を邁進できる人は多くない。大学院に5年以上通い取得する「博士号」は、何か一つの対象を突き詰めた経験がある人に与えられる称号ともいえるだろう。

だがとりわけ近年では、博士号を取得しても研究者を目指さないケースもある。東京大学大学院で博士号を取得後、ベンチャーキャピタル(VC)のANRIに新卒入社した川口りほさんもその一人だ。

「博士というユニークなキャリアがあるから、いまの自分がある」と語る川口さんは、「ビジネス経験がない」ことに劣等感を抱きながら、その克服のためにVCに飛び込んだという。同氏が考える、社会の現実に向き合いながら、自分の経験を武器に変えていく生き方とは。

「ビジネス経験がない」という劣等感

── 川口さんがANRIで働き始めたきっかけは何だったのでしょうか?

私が24歳で大学院の博士課程に進学した頃、ちょうどANRIが「博士課程を卒業する方を対象とした新卒採用をします」とTwitter(現・X)で告知していたんです。いわゆる「研究開発型スタートアップ」とも呼ばれる、ディープテック領域の担当者募集でした。

博士卒人材は、通常の大学卒とは少し異なる経験をしています。日本の大学ではストレートにいけば、22歳で大学卒業、24歳で大学院修士課程を修了、27歳で博士課程を修了。その後はそのまま研究者の道を目指すか、就職するかを選択します。つまり、博士卒人材は新卒だけれども、時間をかけて教育を受けているともいえる。その分、特殊なスキルや経験を持っており、ANRIはそれらを「即戦力」として期待していました。

当時、博士課程に進学したばかりだった私はANRIの新卒採用の対象外でした。それでも「卒業するまでまだ3年ほどありますが、雇ってください」と、募集のなかったインターンでの採用を思い切ってお願いして。大学院の研究とVCのインターンを掛け持ちする生活を始めたんです。

ANRIで働き始めたきっかけを話す川口りほさん

── 博士課程に進学したばかりで、研究だけでも大変だったのではないかと想像します。なぜVCでインターンとして働こうと思ったのでしょう?

たしかに、結果的にほぼ休みなく活動することになりました(笑)。ただその頃の私は、一足先に就職した同期や後輩たちに比べ、研究に没頭していた自分には「ビジネス経験がない」ことに劣等感を抱えていたんです。

着々と“ビジネス経験”を身につけていく同期や後輩と比べ、大学院に残った私は研究の世界しか知らない。だんだん社会との距離を感じるようになり、「私は何のために追求していたんだっけ」と、自分の研究の意義について思い悩むようになっていました。

── ビジネスにも様々なジャンルがありますが、“ビジネス経験”を身につけるために、VCやスタートアップの世界を選んだのはなぜでしょうか?

実は、私自身が修士課程の頃に一度起業を志したことがありました。自分がしている研究の意義に悩んだ末に、「研究を社会に還元できる方法はないか」と考えて。研究室のメンバーとディープテック領域のスタートアップを立ち上げようとしました。でも、全くうまくいかなくて。私を含め、研究や技術のことしか知らない人たちの集団だったので、「ビジネスとは何ぞや」が全くわからなかったんです。

就職してビジネスの世界で活躍する友人を傍目に、自分はただ悶々と日々を送っているだけ。このままでは、この先自分には何もできないのではないか……。そんな不安と劣等感から、俯瞰的にビジネスの知識を身につけたいと思い、それができる場所を考えた結果、VCでのインターンが選択肢の一つになったんです。

「博士から新卒でVC」の道へ

── インターンとして3年間働いたあと、2023年4月に博士号を取得してANRIへ新卒入社されています。半年後の10月にはキャピタリストとしての初投資案件も手がけていますよね。

はい。新卒入社から1ヶ月が経過した5月頃、大阪大学に出張して、スタートアップとして投資できそうな研究と研究者をリストアップしたんです。そこで出会ったのが、10月に投資したエルシオ社でした。独自の技術を用いて、リアルタイムかつ最適な視力補正が可能なオートフォーカスグラス(自動でピント調節できるグラス)を開発している会社です。

エルシオが取り扱う液晶レンズ技術は、簡単に説明すると、眼をセンシングすることで、リアルタイムに最適な視力補正が可能になる技術です。今後私たちが普段使う眼鏡などへの導入が期待されています。この技術は長年の研究成果が積み上がって、ようやく社会実装できそうなタイミングに至っていたことに着目して投資を決めました。

まだ光が当たっていないけれど、将来的に社会実装にまでつながる可能性を持つ技術は、全国各地に眠っています。宝探しのような感覚でいろんな大学の研究室のドアをノックして、支援できるかもしれない研究や技術を探していく。それこそが自分にとってのベンチャーキャピタリストという仕事の魅力であり、楽しさですね。

研究者が挑戦しつづけられる社会を資本主義から設計する

── 川口さんが新たな可能性を秘めた研究や技術に興味があることが、いまのお話から伝わってきました。その意味でも「自分が研究者になる」という道を選ばなかったのはなぜなのでしょうか?

まず、私が大学院で手がけていた研究について少しお話させてください。テーマは、『完全非対称単純排他過程という数理モデルの拡張と解析』です。「なにを言ってるのかよくわかんない」って思いますよね(笑)。でも、私にとっては面白くて、夢中になって打ち込んでいた研究だったんです。

この研究は、社会的インパクトが生まれるまでに長い時間がかかる、いわゆる「基礎研究」と呼ばれるものでした。自分の研究がいつ花開くのかわからない。もしうまくいったとしても、お金になりそうもない。それでも頑張って研究したいと、当時の私は思っていました。

しかし、あるとき研究活動に必要な研究費の獲得に失敗してしまって。それでも研究を続けたくて、アルバイトなどで何とかお金を工面しながら研究を続ける日々が始まりました。

ディープテック領域への投資を通じて、研究者が挑戦しつづけられる社会を実現したいと話す川口りほさん

そうして時間を過ごすなかで、改めて気づかされたことがありました。それは「自分は資本主義のなかで生きているんだ」ということです。

一生懸命に研究して論文を発表しても、先行きの見えない厳しい生活がずっと続いていく。これは私だけでなく、研究者を目指す多くの人たちが通る道です。その背景には、より多くの金銭的な利益につながる研究のほうが、助成を受けやすいという構造があります。自分もその構造のなかで生きていると改めて気づけたことが、研究者とは異なるキャリアを模索し始めるうえでのターニングポイントになりました。

── ディープテック領域を中心に投資を手がけられていることにも、そうした経験が影響しているのでしょうか?

はい。かつての私と同じように、成果までに長い時間を要する研究に取り組む研究者の方は、世の中に数多くいます。その人たちが頓挫することなく、より長く研究に挑戦しつづけられる社会を実現したいです。

そのために、まずはしっかり稼げる研究でお金を生み出すことが重要だと考えています。私たちが投資したディープテック領域のスタートアップが、上場などのイグジットによって大きな資金を生み出す。そうして生まれたお金の一部が基礎研究のような、いわばお金につながりにくい研究にまで流れていく仕組みをつくりたいんです。

そうすれば、研究Aによって生まれた利益が研究Bの資金となり、研究Bを通して生まれた利益が研究Cの資金となり……といった、価値の循環を生み出せるかもしれません。その循環が、一人でも多くの研究者がより長い時間をかけて、腰を据えて研究に挑戦できる社会の実現へ結びつくと考えています。

いまの私にとって、自分が投資したスタートアップを成功させることは、研究者を支える循環を作り出すための第一歩だと言えます。ディープテックに投資することで、より多くの研究からお金を生み出せると証明する。まずはそれをやり切るのが、私の仕事です。

不確実でも、リスクを気にせず駆け抜けたい

── ここまでのお話を聞いて、川口さんにとっては大学院へ進み博士号を取得する道を選んだからこそ得た発見や、芽生えた想いがあるのだと感じました。

そう思います。たしかに、大学院で苦しんでいた頃の私は、20代前半で一般的な新卒採用のレールに乗らなかったことを後悔していました。でも、いまは「博士というユニークな経歴がなかったら、今のキャリアは開けていなかった」と心から言えます。

日本のディープテックスタートアップ市場が本当に立ち上がるか、立ち上がらないかが決まるこの5〜10年のタイミングで、若くしてVCの立場で参画できた。私が現在ベンチャーキャピタリストであるのは、博士号を取得していたからにほかなりません。それだけでも、自分にとっては大きな意味があったと思っています。

また、博士号取得者を表す「Ph.D.」という言葉は、アカデミアの人、博士の人と話すための“チケット”にもなっていると感じます。最初に大学のドアをノックしたとき、相手の研究者は「なんだか若い女性が来たぞ」という顔をすることも少なくありません。しかし、「Ph.D.」と記された名刺を渡せば、「何の研究をしていたんですか?」と話が弾んで同じ土俵に上がれる。私にとってのお守りのようなものなんです。

── かつて劣等感を抱いていた時代を経て、今ではむしろ博士号を持っていることが川口さんならではの強みになっているのですね。

はい。いま思えば「アカデミアでの研究と社会実装を繋げたい」という想いは大学院への進学を決めた頃から変わっていなくて。やりたいことの軸はずっと同じなんです。自分が手を動かして研究しているか、スタートアップを起業しているか、VCとして投資に携わっているか、アプローチが違うだけだと考えています。

長く悩みながら模索する時期を経て、ようやく私は真っ直ぐ自分の想いに向かって走れる環境にたどり着けました。ディープテック領域への投資がどの程度成功するかは不確実ですが、それでもリスクのことは考えず、とにかく全力でどこまでも駆け抜けたい。その先にはきっと、もっと面白い人生が待っているはずだと思っています。

不確実でもリスクを気にせず駆け抜けたいと話す川口りほさん

プロフィール/敬称略

※プロフィールは取材当時のものです

川口りほ(かわぐち・りほ)
ANRI株式会社 ベンチャーキャピタリスト シニアアソシエイト

山梨県出身。東京大学工学部航空宇宙工学科卒業、同大学院で博士号(工学)を取得。2020年にANRIにインターンとして参画後、2023年ANRIに正式に入社。

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