日本を代表するトップクライマーが、世界中の最難クラックに登り続けるモチベーションとは?

日本を代表するトップクライマーが、世界中の最難クラックに登り続けるモチベーションとは?

文:高山裕美子 写真:佐野竜也

道具を使わず自分の体一つで断崖絶壁、時には90度以上にもなる壁を登る、フリークライミング。平山ユージさんは世界で活躍するフリークライマーとして世界中の山を登り、1998年・2000年とワールドカップで総合優勝を果たした。 無駄のないクライミングスタイルは世界一美しいといわれている。 世界最難関と呼ばれるビッグウォールの数々を制した後も 挑戦をし続ける、そのモチベーションの根源はどこにあるのだろうか?

― クライミングを始めたきっかけは何でしたか?

中学生の頃から山登りが好きでした。常にもっと高い山に登りたいと思っていて、岩登りもやってみたかった。高校1年生の時、同じく登山が趣味の友人とよく出かけていて、その日は登山用具店で待ち合わせをしていました。僕の方が早く到着したので、店内で商品を見ながら待っていると、クライミングのカラビナ(開閉可能なゲートを持つ金属製の輪)が目についた。デザインがすごくカッコよくて「いつか、自分もこんな道具を使って山に登りたい」と思いましたね。すると後ろから「君、クライミングがやりたそうだね」と店員さんに声をかけられたんですが、なんとその方は、フリークライミング界の第一人者で、トップクライマーだった檜谷清さんでした。その場でクライミングの講習会に誘われたんですが、当時の僕は高校生でお金もなかった。素直に「行きたいけどお金がない」と伝えると、五千円の会費を二千円にまけてくれました。

― それで講習会に参加してみたんですね。

講習会は埼玉県の奥武蔵にある日和田山という300メートルほどの小さな山で行われました。目の前の岩場は5〜10メートルほど。初めはこんな小さな岩場で何をするのかピンときませんでした。自分としてはアルプスのような壮大な山を想像していましたから(笑)。それに、ハーケン(岩の割れ目に打ち込む金属製のくさび)やボルト(岩に穴をあけて打つ金属製のネジの一種)を使って登るとばかり思っていましたが、フリークライミングって自分の足と手だけで登るんです。やってみるとこんなに小さな規模の岩場でも、登るラインがいくつもあって難易度も異なり、すごく面白かった。世界中の岩場でこれをやり続けたら、一生飽きないだろうなという印象でしたね。

― 講習会の帰りの電車からトレーニングを始めたそうですね。

その日、大体のルートは登れたんですが、1本だけどうしても登ることができないルートがありました。それで檜谷さんにどうやったら登れるようになるのか尋ねると「疲れたと感じる筋肉を鍛えるトレーニングをしたらいいんじゃない? ぶら下がって懸垂をしてみたら」と言われました。まだおおらかな時代でしたから、帰りの電車で車内広告用のフレームを使ってみんなで懸垂をしました(笑)。そして家に帰るとすぐ、部屋に懸垂ができるような棒を打ち付けてトレーニングを始めました。毎日、200回は欠かさずやっていましたね。それと、当時は千代田区の常盤橋公園のお掘りの石垣に登ることができたので、よくトレーニングに訪れていました。

― 最初から目標にしていたのは「世界」だったんですか?

檜谷さんはすでにアメリカとイギリスの山々を経験しており、その話を聞いて、自分も行きたいと思いました。まずは軍資金を貯めようとアルバイト情報誌を買ってきましたが、15歳だった僕にできるアルバイトは限られていた。やっと見つけたのが、ビルの清掃でした。学校に行って放課後は城壁を登り、バイトに行って家に帰ったら懸垂という毎日でしたね。春休みや夏休みは、喫茶店や引越しのアルバイトをフルタイムでしていました。

― 17歳でトレーニングのためにアメリカ・カリフォルニア州にあるロッククライマーの聖地、ヨセミテに渡ります。学校はどうされたんですか?

半年間という期間でしたので、学校は休んで行くしかなかった。でもいろんなことを考えると、その時に行かなきゃだめだったんです。「クライミングがないと、もう生きていられない」ぐらいに思っていましたし、これを逃したら二度と行けないかもしれないという思いがあった。出発ギリギリになって、ようやく反対していた両親から許可が出ました。自分がクライミングに向ける気持ちが本物だと気付いてくれたんだと思います。

平山ユージ

― アメリカでの半年間は、とにかくクライミングに明け暮れていたそうですね。その体験は、平山さんにどんなものをもたらしましたか?

初めてヨセミテに行った時は、大岸壁が谷側にそびえる様を見て「うわぁ、地球上の場所じゃないみたいだ」と感動しました。そしてもちろん、アメリカのクライマーたちに触発されましたし、ヨーロッパからもすごいクライマーがたくさん来ていて、これは近いうちにヨーロッパにも行かねばと思いましたね。「もっと難しいポイントに挑戦してみたい」という目標はすでにあったので、その方法がアメリカに行って具体的に見えてきましたし、もっと具体的に体のどこを鍛えればいいのかもわかってきました。また、筋力や技術力を高めるだけでなく、ストレッチやレスト(休むこと)もしっかり行うようになり、みるみる体が変わっていきました。クライマーとしての素地が、この半年間でかなり固まったと思います。

― 19歳の時にはフリークライミングの本場ヨーロッパで、国際的な大会を体験されています。しかも、初出場だったマルセイユのコンペで堂々の8位入賞を果たされました。

大会を経験して「自分は意外と(世界水準の中で)いい位置にいる」ということが実感できました。初めて臨んだ大会でしたが、勝ち上がっていくにつれて徐々に注目されるようになっていき、準決勝へと進んだ時にはフランスのクライミングギアの会社から、PRとしてうちのハーネスとロープを使って欲しいと言われました。貧乏クライマーとしてはうれしかったですね。さらにその会社からは、上位に入ったらボーナスを渡すとも言われ、驚きました。

― いつプロになろうと決意されたんですか?

ヨーロッパ滞在中に、世界で一番難しいといわれている山(フランス・ヴェルドンにある世界最難ルート「レ・スペシャリスト」)に登れちゃったんです。でもそのあと、次に目指すべきものがわからなくなり、目的を失ってしまった。結局、ヨーロッパには1年ほど滞在し、帰国後は学校に戻りましたが、勉強はつまらなかった。自問自答の末、プロになる決意をしたものの「自分は本当にクライミングで生計を立てたいのか?」という迷いは、しばらく続いていました。その後、再びヨーロッパに戻り、いろんな競技会にがむしゃらに出場しましたが、迷いが晴れたのはアメリカを再び訪れた25歳の時。改めて足を踏み入れたアメリカは、8年前......17歳の僕が見ていたものとは大きく違っていた。つまり、自分自身がずっと進化していたんです。ものすごく楽しくて、ワクワクした。ああ、自分はこの進化を求めていたんだと、新しい世界を見てみたかったんだと気付いたんです。

平山ユージ

― その後、プロのフリークライマーとしてさまざまな記録を塗り替えていきますね。28歳でヨセミテのサラテルート(1100メートル)を世界初のオンサイトで完登されたのも、その一つです。

* オンサイトとは、目標のルートについて初見一発で完登するという、高度なテクニックを必要とするもの

当時、1100メートルの壁をオンサイトで登るなんて、誰も想像しなかったと思います。僕はワールドカップなどの競技会に参加し、持久力、耐久力をつけるためのトレーニングしていました。山の岩壁での経験もありましたので、自分の経験値から考えても「これはオンサイトできるんじゃないか」と思った。でも、最初にやれると思ってから実現するまで、準備に2年かかりました。目標達成のために、綿密にプランを練ってトレーニングを重ねたことで、精神的にも体力的にもすごく成長できましたね。

― その翌年には日本人初のワールドカップでの総合優勝を達成。平山さんが思う「勝つために最も必要なもの」とは何ですか?

「登りたい」という欲求、エネルギーでしょうね。自分自身、誰よりもそれが強かったと思います。

― クライミングの最中に極限状態に陥ったことはありますか?

きつい状況は何度かありますが、本当の極限状態ということで思い浮かぶのは1回。2日間で2つの大きな壁を登るというものです。初日はある程度やれましたが、2日目は途中で水も食料もなくなって脱水症状になり、進みたくても進めない状況に陥りました。やっとのことで登りきることができましたが、本当にきつかったですね。前日のクライミングで相当疲労していたのに、自分の体を過信していた。そこから回復するまで10日間かかりました。オーバートレーニングだったんです。そういう事態が起こらないように、自分の体を見極めることの大切さを学ぶことができた体験でした。

― 海外のクライマーたちと一緒に登る時に、チーム作りで心がけていることはありますか?

コミュニケーションですね。マレーシアにある標高4000メートルのキナバル山のルートを開拓した時、僕から声をかけて国際遠征チームを組みました。いろんな岩場があって、それぞれが登りたいところに自由にトライするという方法でした。チームメイトとコミュニケーションを密にとって、足りない部分を補うことが自分の役割でした。また、2015年に行ったインド洋のレユニオン島の時は、参加者がみんな積極的でした。自己主張も強く、若いクライマーたちが意欲的に登っていましたが、途中から難しいパートで登れないことが続き、沈黙ムードになっていった。「もう、場所を変えたい」という雰囲気でしたが、自分の感覚では続ければ必ずできると思った。それを仕切っていたフランス人のクライマーに伝えたら、じゃあ、やろうと。滞在を3日間延期して、最後のトライで登れました。この時に完成させたラインを、僕たちは「Zembrocal(ザンブロカル)」と名付けました。由来は、レユニオン島の郷土料理の混ぜご飯の名前。レユニオン島の人々の祖先は様々な国から移り住んできたのですが、「Zembrocal(ザンブロカル)」の味は、その家族のルーツによって味が微妙に違うのです。ツアーメンバーが、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアといろんな国のクライマーたちで構成されていたので、この名前がぴったりだと思ったんです。

― クライミング施設「Base Camp」はどのような思いで始められたんですか?

いろんな人が集まる場所が作りたかったんです。誰かと話して心が和むだけでもいいし、何か新しい発想が生まれる場所になってもいい。明日の幸せや喜びにつながっていけばいいなって。下は5歳から上は70歳代の方もいらして、日本全国、海外からもメンバーが訪れます。指導するというよりも、一緒に登って目標に近づけてあげられるといいな、と。自分自身で考えて登ることがフリークライミングの楽しさでもありますし、力にもなりますから。

クライミング施設「Base Camp」
クライミング施設「Base Camp」

― 今後、手がけてみたいことはありますか?

フリークライミングがオリンピック競技になるという話も出ており、競技としてさらに注目されていくでしょう。ジムにあるような人工壁を登るのがクライミングだと思っている人が大半だと思いますが、歴史を紐解けば、登山の延長に岩場を登るクライミングがあったわけで、もともとスリルを味わう、冒険的な要素が強いものでした。けれど、今は外の岩場はリスクがあるからと敬遠するクライマーが多いのは残念ですね。両方を体験することが、クライマーのさらなる飛躍に繋がると思うんです。僕が世界中の岩々に挑戦し続け発信していくことで、クライミングの世界ももっと豊かになればいいなと思います。

― 15歳の時に思ったように、クライミングは一生飽きないスポーツですか?

間違いなく、その思いは今も続いています。

平山ユージ

プロフィール/敬称略

平山ユージ(ひらやま・ゆーじ)

1969年、東京生まれ。15歳でクライミングと出会い、17歳でトレーニングのため渡米。19歳の時に単身ヨーロッパに渡り、数々の国際クライミングコンペに出場、1989年のフランケンユーラカップ優勝を始め上位入賞を果たす。1998年、2000年にワールドカップ総合優勝。クライミング施設「Base Camp」を埼玉県入間市と東京板橋区で運営。

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